宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

宝満山の寺社史2

2009-02-10 | Weblog

 一方で下宮および本谷地区において仏教寺院施設に比される瓦所要の礎石建物が発見されており、瓦の様式から平安期に属すものと考えられることより(下宮礎石群周辺では鴻臚館式などの奈良期の様式を含むが持込み再利用の可能性もある。現存する礎石そのものは平安期の層を基盤とする。今回の37次調査で12世紀前半以降の層の上に現在の礎石が置かれていることが判明している。)、山中での土器祭祀盛行後に寺社が形成された流れで捉えられる。
 寺院は『扶桑略記』、『叡山大師伝』における延暦22(803)年の伝教大師の薬師仏奉納に係っての記事には「竈門山寺」、承和14(847)年の入唐僧円仁の渡航記録書『入唐求法巡礼行記』に「大山寺」、『石清水文書之二』における沙弥証覚の宝塔建立の記事(933年)では「大宰府竈門山」、『後拾遺往生伝上二』の僧安尊の死亡記事(1086年)では「内山寺」の名称で登場する。
 『元亨釈書』の衆徒の争論記事(1243年)には「有智山寺」とされ、おおよそ平安前期に「竈門山寺」、平安後期に「大山寺」「内山寺」、鎌倉期以降は「有智山寺」と名称が変遷したことが読み取れる。おのおのが連続した一つの組織名か否かは学史上では解決されていない(「古代における竈門山寺の活動」1975小田富士雄『九州文化史研究紀要20』)。「大山」の読みが「だいせん」であれば音においては「内山」に通じ連関する可能性もある。下宮地区のホノケ(字の下位の小地名)に「おおやまじ」があるとも言われる(『宝満山歴史散歩』2000森弘子)。
 寺の運営にかかわっては、円仁が参籠読経した際(9世紀第2四半期)には観世音寺僧に伴われる形が採られ、独立した寺院体制が整っていない様子が伺われる。
 沙弥証覚による宝塔建立の記事(933年)に登場する塔は、延暦寺が国家鎮護・天台宗振興の戦略的モニュメントとして国内6所(近江国比叡山東塔、山城国比叡山西塔、上野国淨法寺、下野国大慈寺、豊前国宇佐弥勒寺、筑前国竈門山寺)に配置の計画がなされた塔の一つであり(『六所造宝塔願文』)、宝満における仏教寺院展開初期の段階から比叡山が深くかかわりを持っていたことが知られる。この宝塔は昨年調査された34次調査地点の礎石建物が最有力候補とされている。
 平安後期(長治2(1105)年)には大山寺別当職の補任に関し石清水八幡宮と比叡山延暦寺との間で争論となり、山内での大宰府兵士と叡山悪僧との合戦、平安京における日吉神人、叡山大衆による御所陽明門への強訴事件へと発展し、これをきっかけとし大山寺は比叡山の末寺となった。騒動の背景には1116年『観音玄義疏記』記事の「博多津唐坊大山船」や1218年『百錬抄』記事の「大山寺寄人張弘安(博多綱首)」などから同寺院が主体的におこなっていた博多を拠点とする貿易の利権が係ったものと推測される。この段階においては寺に職能で従属する神人や寄人といった人々の中に博多の華僑貿易商まで含まれている様相から、寺の規模や機構自体が巨大化していたことを示唆している。
 今回検出された下宮礎石群の成立時期は、まさにこの山が比叡山本山の末寺に位置付けられた段階に整備されたと考えられ、変革期に設置された巨大なモニュメントであったといえる。