本当の喜びと誇りを持って、好きで楽しみながら仕事をする職人たち。
「職人学」(著者:小関智弘氏、出版社:講談社、出版日:2003/11/12)
本書を読みました。
「小さな工場の旋盤の前に立って、その目の高さで、世のなかを見据えて書くということを続けてきた。どんな工場をたずね歩いても、どんな人とお逢いしても、その目の高さだけは変えなかった。先生とか作家と呼ばれることもあったが、俺は旋盤工だとみずからを戒めてもきた。卑下してきたわけではない。むしろ、旋盤を使ってものづくりをする工(たくみ)であることを誇りに感じながら働き、書き続けてきた。…(中略)…鉄を削ることが好きだから続けられた。」(本書、著者によるあとがきより。)
著者は高校卒業後、約50年間一貫して旋盤工として働き、途中「渡り職人」の様にして勤める職場・会社を転々と変えながら「場数を踏む」事による自身の持つ経験と、働きながらの取材から得た多くの知見が、本書をはじめ、旋盤工として働く傍ら作家としての執筆活動によって出された多くの著書に記されて有ります。元々が作家としての才能も持ち合わせていたのでしょうが、豊富な語彙と鋭い感性から表現力も豊かで、深い意味を含む各見出しから私は引き付けられ、共感してしまいます。
世の中には数多くの職人の携わる仕事が在りますが、著者が旋盤工であった事もあって、本書では鉄工、及び町工場が中心となっています(他の職種も勿論取材されて取り上げています)。
私は旋盤工ではありませんが、同じく鉄工の分野で働いて来ました。私の場合は著者と違って大した腕や技能は持ち合わせてはいませんが、著者と同様に若い頃からただ純粋にその仕事が好きで続けて来ました。また、単なる労働者と異なり、職人のする仕事に携わる事が出来る事に誇りを感じて来ました。給料は二の次で、ただ単に仕事が好きで働いて来ました。納期までの日が浅い特急の仕事を間に合わせようとして遅くまで残業しても苦にならず、ろくな暖房も無い工場の中での冬の寒い中や夏のクーラーも無い暑い中で大量の汗をかきながらでも一向に苦に思わずに働いて来ました。その様にして働いていると、給料・稼ぎは勝手に後からついて来たものでした。
現在、私は40代も半ばとなりました。鉄工の仕事の上で著者と同様に職場を数ヶ所渡り歩き、同じ所で続けて働き続けるよりは見識が広がっていると自負しています。しかしその後、訳有って暫く鉄工の仕事を離れ、現在は好きな鉄工の仕事に戻る事が出来ました。本書は此度再読したのですが、私自身にとっての原点に今一度戻り、本書を読む事によって基本を見つめ直し、職人としての心構えや姿勢・態度・考え方等を自分の中で点検し整理し直す事に努めました。
最近は機械化が進んで、たくみを意味する機械工では無く「機械要員」が増え、回転寿司店で働くのは寿司職人では無く「単なる店番」、家を建てるのが大工職人では無く機械加工された材料を組み立てるだけの「下働き」となってしまっていると言います。
「職人とは、ものを作る手だてを考え、そのための道具を工夫する人である。」。タカを括らずに「広い間口から入っても、その奥ゆきを極めようと努力する人たちだけが職人」と言います。「現合」(現物合わせ)で良い「一品物」では無く、「数物」(量産品)においては誤差やばらつきが限りなくゼロに近い無個性な品物が要求されますが、その場合においても、仕掛かり・段取り、治具・道具の工夫、加工手順等においての「プロセスで個性を発揮」する事が大事だと言います。
また、図面を見て「全体を見て、手順をイメージ」する事が出来ることが大事で、「イメージできないから見積りをふっかけ(高い値段に見積もり)」、そして「イメージできない人は、結局できません」と言います。特に、数物では無い「一品料理」であるその時限りの「一品物」にはマニュアルや教科書は無く、そのプロセスを考えてイメージする能力が重要であると言います。「段取り八分」の言葉通り、段取りまででその品物の完成度がほぼ決まってしまう事ともなります。その様に図面をもらってからのイメージに始まって品物を完成させるまでは職人はその仕事において主人公であり、その一連の一貫した作業を通して行う事が一人前であると言います。
与えられた機械をただ受け身になって教えられた通りに使うのは、単なる労働者で機械の奴隷であると言います。考え工夫して「邪道」や「我流」を極めれば、それがやがて「正道」になると言います。一例として、大きな工場でのNC機械を数台掛け持ちした機械要員が、効率重視で時間に追われる中で走り回されている姿は「作らされているにすぎない」と言っています。
ところで、ステンレスが固いと言うイメージの「神話」が一般的には持たれていると思います。しかし、ステンレスは「加工硬化性」が強い為に、旋盤やボール盤等において送りが細かいと削る端から切削熱で固くなってしまうので、送りを荒くして深く切り込めば、切削熱で焼けていない柔らかい部分を削る事が出来て切削が容易になると言います。理屈では無く、現場で働きながら学んで「場数を踏む」事が、その様な事に気付いたり理解を深める事になると言います。そして「恥をかきながら技能を獲得する」事が、真剣に働きながら本当に学ぶと言う事と言います。
現在では超硬チップが使い捨てにされ、自分でバイトを火造りしたり研ぐことも出来ない旋盤工が増えていると言います。その超硬バイトは先端では無くナタの刃の両脇で木を割る様に削っており、刃先を殺す事で刃もちが良いと言います。
「ものを見る目を養う」事が必要だと説き、また感受性を豊かにして鉄などの素材と親しくなる事が大事だと言います。感受性豊かな著者は、「鉄が匂う、鉄が泣く」、「指先で百分の一ミリを感知」、「湯面を見る」、「金属を舐める」、「機械にニンベンをつけろ」等と題して説きます。
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「職人学」(著者:小関智弘氏、出版社:講談社、出版日:2003/11/12)
本書を読みました。
「小さな工場の旋盤の前に立って、その目の高さで、世のなかを見据えて書くということを続けてきた。どんな工場をたずね歩いても、どんな人とお逢いしても、その目の高さだけは変えなかった。先生とか作家と呼ばれることもあったが、俺は旋盤工だとみずからを戒めてもきた。卑下してきたわけではない。むしろ、旋盤を使ってものづくりをする工(たくみ)であることを誇りに感じながら働き、書き続けてきた。…(中略)…鉄を削ることが好きだから続けられた。」(本書、著者によるあとがきより。)
著者は高校卒業後、約50年間一貫して旋盤工として働き、途中「渡り職人」の様にして勤める職場・会社を転々と変えながら「場数を踏む」事による自身の持つ経験と、働きながらの取材から得た多くの知見が、本書をはじめ、旋盤工として働く傍ら作家としての執筆活動によって出された多くの著書に記されて有ります。元々が作家としての才能も持ち合わせていたのでしょうが、豊富な語彙と鋭い感性から表現力も豊かで、深い意味を含む各見出しから私は引き付けられ、共感してしまいます。
世の中には数多くの職人の携わる仕事が在りますが、著者が旋盤工であった事もあって、本書では鉄工、及び町工場が中心となっています(他の職種も勿論取材されて取り上げています)。
私は旋盤工ではありませんが、同じく鉄工の分野で働いて来ました。私の場合は著者と違って大した腕や技能は持ち合わせてはいませんが、著者と同様に若い頃からただ純粋にその仕事が好きで続けて来ました。また、単なる労働者と異なり、職人のする仕事に携わる事が出来る事に誇りを感じて来ました。給料は二の次で、ただ単に仕事が好きで働いて来ました。納期までの日が浅い特急の仕事を間に合わせようとして遅くまで残業しても苦にならず、ろくな暖房も無い工場の中での冬の寒い中や夏のクーラーも無い暑い中で大量の汗をかきながらでも一向に苦に思わずに働いて来ました。その様にして働いていると、給料・稼ぎは勝手に後からついて来たものでした。
現在、私は40代も半ばとなりました。鉄工の仕事の上で著者と同様に職場を数ヶ所渡り歩き、同じ所で続けて働き続けるよりは見識が広がっていると自負しています。しかしその後、訳有って暫く鉄工の仕事を離れ、現在は好きな鉄工の仕事に戻る事が出来ました。本書は此度再読したのですが、私自身にとっての原点に今一度戻り、本書を読む事によって基本を見つめ直し、職人としての心構えや姿勢・態度・考え方等を自分の中で点検し整理し直す事に努めました。
最近は機械化が進んで、たくみを意味する機械工では無く「機械要員」が増え、回転寿司店で働くのは寿司職人では無く「単なる店番」、家を建てるのが大工職人では無く機械加工された材料を組み立てるだけの「下働き」となってしまっていると言います。
「職人とは、ものを作る手だてを考え、そのための道具を工夫する人である。」。タカを括らずに「広い間口から入っても、その奥ゆきを極めようと努力する人たちだけが職人」と言います。「現合」(現物合わせ)で良い「一品物」では無く、「数物」(量産品)においては誤差やばらつきが限りなくゼロに近い無個性な品物が要求されますが、その場合においても、仕掛かり・段取り、治具・道具の工夫、加工手順等においての「プロセスで個性を発揮」する事が大事だと言います。
また、図面を見て「全体を見て、手順をイメージ」する事が出来ることが大事で、「イメージできないから見積りをふっかけ(高い値段に見積もり)」、そして「イメージできない人は、結局できません」と言います。特に、数物では無い「一品料理」であるその時限りの「一品物」にはマニュアルや教科書は無く、そのプロセスを考えてイメージする能力が重要であると言います。「段取り八分」の言葉通り、段取りまででその品物の完成度がほぼ決まってしまう事ともなります。その様に図面をもらってからのイメージに始まって品物を完成させるまでは職人はその仕事において主人公であり、その一連の一貫した作業を通して行う事が一人前であると言います。
与えられた機械をただ受け身になって教えられた通りに使うのは、単なる労働者で機械の奴隷であると言います。考え工夫して「邪道」や「我流」を極めれば、それがやがて「正道」になると言います。一例として、大きな工場でのNC機械を数台掛け持ちした機械要員が、効率重視で時間に追われる中で走り回されている姿は「作らされているにすぎない」と言っています。
ところで、ステンレスが固いと言うイメージの「神話」が一般的には持たれていると思います。しかし、ステンレスは「加工硬化性」が強い為に、旋盤やボール盤等において送りが細かいと削る端から切削熱で固くなってしまうので、送りを荒くして深く切り込めば、切削熱で焼けていない柔らかい部分を削る事が出来て切削が容易になると言います。理屈では無く、現場で働きながら学んで「場数を踏む」事が、その様な事に気付いたり理解を深める事になると言います。そして「恥をかきながら技能を獲得する」事が、真剣に働きながら本当に学ぶと言う事と言います。
現在では超硬チップが使い捨てにされ、自分でバイトを火造りしたり研ぐことも出来ない旋盤工が増えていると言います。その超硬バイトは先端では無くナタの刃の両脇で木を割る様に削っており、刃先を殺す事で刃もちが良いと言います。
「ものを見る目を養う」事が必要だと説き、また感受性を豊かにして鉄などの素材と親しくなる事が大事だと言います。感受性豊かな著者は、「鉄が匂う、鉄が泣く」、「指先で百分の一ミリを感知」、「湯面を見る」、「金属を舐める」、「機械にニンベンをつけろ」等と題して説きます。
職人学価格:¥ 1,728(税込)発売日:2003-11-13 |
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YouTube: OTAKARA発見隊 vol.26 『元旋盤工・作家 小関智弘さん』
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