AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

母への恨みつらみ(なんちゃって)

2022年03月03日 | 女性であること、のあれこれ
なんちゃって、
というのは本当で、
そのお話を今日はするのですが。

あることからあることを思い出したのです。


そう、今日は雛祭り。

娘がいるので、
お雛様出してないけど(ごめん!)
せめて、ちらし寿司くらいは作って
おめでたい雰囲気にしようと
お買い物に行ってきたところです。

(因みに私は具材を全部最初から作るはずもなく、
「ちらし寿司の素」を使うのですが、
なんてったって、永谷園の「すし太郎」(北島三郎先生)がおすすめ。
スーパーではミツカンのやつがやたら派手にディスプレイされていましたが、
それらには目もくれず、
その下で数も少なく地味に展開されていた「すし太郎」をカゴの中に。
一度ミツカンに浮気をした経験があっての、バック・トゥ・すし太郎。
間違いない。)


雛祭りということで「お雛様」。

お雛様と言えば、娘に母が贈ってくれた雛人形。
お雛様とお内裏様のシンプルなセット。
それは全然よくて、贈ってくれたことがありがたいのですが、

この雛人形セットが我が幼児期を思い出させるきっかけに。
(って、今年は出してないけど)



これは今日facebookで「過去の思い出」とかって出てきたもの。
3年前のものだそうだ。


そして娘の右後ろにあるのが例の雛人形セット。
(真ん中は、娘がウサギ年ということで、
全部ウサギのミニ雛壇。これも母がくれた。
これはこれで可愛らしい。)


でも、この雛人形・・・


地味じゃない?!



そんなことはありません。
普通のと違って、なんだかセンスが良くて、
「よくあるやつ」より、素敵じゃない???


という、お声が聞こえてきそうです。


しかし、私の中のリトル・アユコの声はこういう。


違う、違う!
コマーシャルでやってるような、久月とかがやってるような、
ああいう普通の、華やかで綺麗で可愛いのがいい!



と。


ここから私の幼児期へと。


思えば、幼児期から30歳くらいまで、
私はひたすら「女の子」を否定していました。
世の中の女の子ではなく、
自分の中の女の子。かわいい女の子。


(これは随分前にブログでも
『私はプリンセスになりたかったのだ』という(ような)タイトルで、
確か2部だか3部に渡って書いたことではあるので、
重複するかと思うのですが。)


私はかわいい服を、女の子っぽい服を着ることを拒絶してましたし、
といっても、ああいう「センスのいい」お雛様を買っちゃう母ですから、
どちらにしてもヒラヒラ系のかわいい服は一度も着せられませんでした。
また、(母から聞いた話だと)手を繋ごうとすると、
いつも母の手を振り払っていたという、
スキンシップすらも拒絶するような子供でした。
(変な子〜〜〜)


ですが、大人になってようやく分かったことは、
私はかわいいものが好きで好きでしょうがなく、
本当はとても憧れていた。
髪を長く伸ばして、お母さんにとかしてもらって、
結んでもらったりすることにもとても憧れていた。
母が毛嫌いする「田舎臭いヒラヒラのドレス」だって着てみたかった。
ママ、ママ、とベタベタしたかった、多分。


しかし、なぜ、
それを全部拒絶してしまったのだろう。


まあ、確かにかわいいお洋服に関しては
どちらにしても、「私が憧れていたタイプ」のものを
着せられなかっただろうし、
髪の毛に関しては、父方の祖母も、母も
「長いの反対」の人たちだったので、
高校生になるまでずっとショートでありました。


「ただ、拒絶していたのだな」と思う理由は、
私はとにかく「お人形遊び」が好きだったのです。
ぬいぐるみではないのです。お人形。
今、思えば、自分の夢を全部お人形に託していたのだな、と思います。
長い髪、かわいいお洋服を着せられたお人形が
「夢の私」だったのでしょう。

(当時は、そういう高さ30cmくらいの素敵なお人形がたくさん売っていました。
今は、Amazonでも探してみたのですが、メルちゃんシリーズしかなく。
あまりお人形は流行らないのでしょうか。。。)



拒絶の理由。


また、あることを思い出しました。

これまた先ほどご紹介した過去のブログでも語っていますが、
30歳頃に、ご縁があって、
あるボイス・ヒーリングの先生のクラスに一年間通いました。
これまたご縁があって集まった数人の私たちは
課題が「女性性」ということ。
しつこいほど、それについて向き合わされました。


ある時、これはクラスでだったか、
個人セッションの時だったか、
私の幼児期と、その時の「女性性の欠如」の関連について、
先生があることを「視ました」。


視た、というのは、先生はそのようなことに長けていらっしゃったからです。



先生、曰く、

なんかね、お腹の中にいる時に、
お母さんが「ああ、男の子が良かった」って言ったのを
聞いたみたいなのよね。
それがショックだったみたい。


このエピソード(先生のお話)についてはずっと覚えているのですが、
その通りだったとしても、もちろんそんなの覚えていないし、
先生も「お母様もなんとなく軽く言ってしまったことみたい」とおっしゃってたし、
今、母親になった私にとっても、
そんなことを本気で言うわけがないのは分かってる。
例えば、実際に男の子が欲しかったとして女の子が生まれても、
ガッカリなどする訳がない。
単なるママあるある「〜だったらいいなあ」っている、
軽いお話。


が、しかし。


万が一、本当に当時のお腹の中の私が
そんなことも知る由もなく、
そのセリフを聞いてしまったら・・・


確かにショックだろうなあ。



自分は歓迎されていない。
女の子の私は愛されないんだ。
女の子はダメなんだ。


とかね。


いやいや、分からないの。
シャドウサイドや、女性性のうんちゃらとか、
その手のワークはもうこれでもかってくらいやってきてるから、
大分、「フラットな、もしくは、ホールな私」になったのですが、


でも、母のことを思い出した時に、



ちょっと・・・!
だとすると、全部、辻褄が合うんじゃないの!?



って、改めてね。


私にとっては、
30年間続いた「悲しい女の子」の時代は、
本当にそんな些細なことがきっかけだったかもしれない、と。
覚えてないけど、
そういうこともあり得るかもしれない、って。


本当に、些細な誰かの一言が、
それが自分にとって大切な人であればあるほど、
「まさかの傷」になったりするのかもしれない。


そして、時を経て、
その「傷」ばかりが存在感を増していって、
自分の中の大きな部分に影響を及ぼしたりする。


でも、
それは


誤解であること。


が、多いではないでしょうか。

もしくは、もうとっくの昔に「あはは!もういいよ!」と
大人になった自分が許してもいいことなのではないでしょうか。


大人の自分が、
自分の中にいる傷ついた子供に
「分かってるよ、傷ついたんだよね。
でも、もう大丈夫だよ。もういいんだよ。」と
言ってあげればいいのではないでしょうか。


いうは易し。

かもしれません。
だって、「ワークやってきました!」
とか言ってる私がまだ言ってるし、笑。


でもね。


誰かの言葉に傷ついた時。
それが故意だろうが、なかろうが、
傷ついたのは事実。

けれど、
傷ついたままでいるか、
「もういいや!いつまでも傷ついてるのもバカバカしい!」と
自分の最大限の力を行使して颯爽と前に進むか、
それは自分の選択。


許すという行為は大変勇気がいる。
でもその後に起こる、身軽さと自由は
それだけの価値がある。


私のように「ひな祭りだから」とか言って、
まだ過去のことを言ってる奴もいるけれど、


これもまた
傷を癒す、もしくは「でも、もう癒えたでしょ?大丈夫なんじゃない?」と確認する、
きっかけでもあります。


そう。
多分、私たちは
傷を抱えたなら、
それを癒すための
きっかけを呼び寄せてる。


気づくまで何度も、何度も。
ちゃんと癒えるまで何度も、何度も。


誰かとの出会いや出来事が、
「もう、いいよ」と言ってくれる。


少しずつかもしれない。
けれど、あなたの魂は傷ついたあなたを放ってはおかない。


そのプロセスがたとえロングランになったとしても、
あなたは常にそこから自由になるための道を歩いている。


私は愛されてるんだ。
私は愛されていいんだ。


それを認めるまで、
色々な人が助けてくれる。


最後にあなたが腕を大きく広げた時、
過去の魔法は消えて無くなる。


愛があなたに向かって、
あなたを通して外に、
流れ始める。


愛の循環が蘇る。






・・・というお話を雛祭りに。



母への恨みつらみ(笑)とかって言うけど、
おかげで「女であること、女の子であることを同時に謳歌するとはどういうことか」
というのが、大人になって私なりに分かったし、
女性は年に関係なく、いつまでも「かわいい女の子」でいられることも分かりました。
(ヒラヒラドレスは着ないよ、笑。いや・・・場合によっては・・・!ふふふ。)


母の些細な(いい加減な)一言が
私の人生の半分以上を占める課題になったのも
「そういうことになっていたから」なのかもしれない。


それは私の場合は女性性絡みのこととなったけれど、
要は、


私はどうであっても
愛される価値のある存在なのだ、
ちゃんと愛されているのだ、


という答えに辿り着くためのものなのかもしれない。


まだちょっと怖いけどね、
大丈夫、どうせそこに辿り着くしかないのよ、魂とは。



・・・というお話でした!



↓つまりこういうの!(母と私の単なる好みの違い)





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