ニューヨークと言えば(?)
『自由の女神』を思い出す方も多いと思いますが。
英語だと
『Statue of Liberty』
となりまして、
そのまま訳すと
『自由の像』になっちゃって
(多分)味気ないから、女神、にしたのかな、
とか勝手に推測しています。
Statueはともかくとして。
問題(?)はLibertyの方。
自由、と聞くと、Freedomじゃん?
Statue of Freedomでもいいじゃん?
って思いますでしょ?
確かにLibertyもFreedomも自由と訳せるのですが、
何が違うかっていうと、
Libertyというのは
動詞「Liberate」、つまり「解放する」、
の名詞形。
『解放』という意味合いが強いのです。
個人的に感じることですが、
「解放する」って、動き、じゃない?
Freedomという自由という状態を指しているのと比べると、
Libertyというのは「自由へ向かう=解放する」という動きを感じる。
アメリカの歴史や文化を考えると、
ぴったりな感じがする。
でも今日はアメリカのお話ではなくて、
個人レベルでのLiberty、Liberation(解放すること)のお話。
このブログのカテゴリーに
「スピリチュアル&ヒーリング」というのがあるのですが、
私、どうもヒーリング、とか、癒し、っていう言葉を使うのに
抵抗を感じるのですわ。
(致し方なく使っている)
そのものの意味に対してではなくて、
日本での(だけじゃないかもだけど)使われ方とか認知のされ方というのかしら。
どうも、やたら、まあ既に使い古されてるけれど、
なんていうか、浅い、っていうか、チャラいっていうか、
かと言って、スピリチュアル的にマジで使うと、
なんか胡散臭いっていうか。笑。
まあ、いいわ。
とにかく。
最近、私がようやく気づいたことというのは、
自分自身が「己の魂のヒーリング、癒し、の道」を歩いてきて、
(というより、強制的に歩かされてきた感があるのですが)
これって、
要は・・・
癒す、とは、解放することではないか
癒される、とは、解放されるということではないか
つまり
癒し全般、Liberation(リベレーション)に置き換えちゃっていいんじゃないの?
ということです。
癒しとかヒーリングっていう言葉にうんざり来てるから(私だけ?)
これからは、カジュアルに使う時でも、
例えば温泉に入ったりして、
「超癒されれる〜〜」ではなく、
私今、超リベレートされてる〜〜
っていうのがいいのではないかと。
・・・絶対、流行んないわ。
癒し=Liberation(解放)のお話に戻すと。
何から自分は解放されるのか。
何から自分を解放するのか。
上のように受動的に言えるし、
能動的にも言えるけれど、
自分自身の体験から気づいたことは、
癒しとは、後者の方だということ。
誰かが、何かが、解放してくれるのではなく、
自分が自分で自分を解放するということです。
じゃあ、「何から?」ということですが。
癒し、が必要であるということは、
そこに「傷」「痛み」があるということですね。
その、自分が負った傷、痛みから自分を解放すること。
それが、真の意味での癒し、ヒーリングであると思います。
じゃあ、どうやって???
まずは、それらの傷や痛みに気づいて、認めることです。
そしてそれは「過去からのものだ」ということに気づいて、認める。
そして、いかに、それらに基づいて、
自分が日々、どういう場面で、人に、事象に、
パターンとしてのリアクションしているかに
気づいて認めることです。
今、読み返しましたが、
これ確実に、
本屋さんの「精神世界」コーナーの
「ヒーリング」カテゴリーにある本・・・
的なものになっている・・・
が!
私が体験してのことだから続けるよ。
さて、「認めること」が3つあるけれど、
この過程だけでも、本当に大変なのです。
気づくこと、そして更に、認めること。
認める、ということは、もう無視できない、ということです。
つまり、もう自分は自分をそこから解放する道に入ってしまった、
ということになります。
もう戻れないよ、ということです。
でも、それはちゃんと時期があるように思います。
認める、というよりも、認めざるを得ないことになるからです。
不思議なもので。
そして、これ以上そのままでは先には行けないよ、
というある種の、Red Flagが現れるのです。
そう、どんどん辛く、苦しくなっていくのです。
そういうことが「気づけ!気づけ!」と起きてくるのです。
そこでようやく認める。
これを読んでる皆様は年齢的には大人の方々だとであろうという前提で・・・
多くの日々感じる、傷ついたとか、ものすごく腹が立ったとか、悲しいとか、
それらの根底にある「怖れ」とか、
更にそこからくる「自分を(他者から)守る。攻撃する」といったような姿勢は、
本当にその時のものですか?
過去からのものが原因のパターン化したリアクションということはありませんか?
純粋な、本当にその場でのアクションではないかもしれません。
それらは何と言っても、「人との関わり」を通して起きます。
過去に「人との関わり」を通して起きたことが、
それが傷や痛みとなったのなら、
それが癒されるまで(解放されるまで)
別の人たちであっても、あなたの中でパターン化され、
あなたのリアクションは繰り返されます。
ですから、
毎回、あなたは傷つき、心が痛むのです。
全く別の人、全く別のシーンでも、
「過去と似たような」ことを「わざわざ探して、見つけて」
「ね?ほらね?結局、そーじゃん!」と、
自分の過去からの傷や痛みをそうやって「証明」するのです。
過去からの縛りを、無意識に求めるのです。
クレイジーでしょ?!
そう、クレイジーなの。
クレイジーなのよ。
分かるかしら?!
でも、私は自分がそうであったことに気づいて認めた。
その傷や痛みがどんなものであれ、
それがいつ、とか、誰から、とか、
人それぞれの生きてきた道がありますから、
それぞれのシーンがあったと思います。
もう覚えてないこともあるかもしれません。
頭から記憶がなくなっても、
心がまだそこにいることだってあります。
どんなものであれ。
人を通して傷ついて、
ずっとそこにいると、
自分を肯定できなくなります。
自分をちゃんと評価してあげられなくなります。
自分なんか、となります。
自信なんて言葉は自分とは縁がない、と思うようになります。
つまり、自分が自分という人間を、
そのままで、無条件に、愛してあげられれなくなります。
そうすると、自分は人に愛される価値などないとなります。
だからそうすると、
自分は人に愛される価値などはない、という証明をあちこちに
無意識で探すようになるのです。
「ただ起きていること」としてフラットに観るのではなく、
過去のこととダブらせて観るのです。
たとえ今の目の前の相手が自分を愛していようとも、
「そんなはずはない、だって」と「愛させない」ないようにするのです。
それが一人の相手だろうが、複数の人たちでも。
それがどんどん自分を本来の、
つまり傷や痛みがない、
ピッカピカの自分から遠ざけてゆくのです。
そうやって生きることが、
そうやって人と関わることが、
どんなにか辛いものか。
自分になぜそんなにも意地悪になるのか。
しかも、過去の、遠い昔の「アレ」とか「アレ」が
未だに主権を握ってるなんて、
そんなアホらしいことはない。
本当の自分はそんなんじゃない。
「アレ」とか「アレ」で価値がなくなるような、
そんなやわいものじゃない。
それらを許せずに、いつまでもそこにしがみついているのなら、
今とこれからの自分がかわいそうじゃないか。
もう、いいじゃないか。
もう、十分、長い年月、傷ついて、悲しんで、
自分を必死に守って、頑張ってきたじゃないか。
今更許すことも、そこから手を離すことも怖いほど、
その場所が心地よくなるほど、
もう、十分にそこにいたじゃないか。
もう、それらの体験を勇ましく「叡智」に変えて、
大切な学びとして、
まっさらになって、前に進んでもいいんじゃないか。
Liberationとは解放するということ。
それは、自分がするChoiceだと思います。
そして、簡単なことではありません。正直。
何なら、元の場所でヒーヒーやってた方がいいと思うかもしれません。
でも、一度、解放の道を歩み始めると、
元に戻ろうとしても、もう戻れない、ようになっている。
戻ってしまったような気がしても、
そのスパイラルの道のちょっと上に行ってる。
同じように見えても、ちょっと上に行ってる。
Liberationというゴールはすでに設定されていて、
一体こんな状態の自分をどうやってゴールの持って行くんだ、と思っても、
持っていかれる。
毎日毎日一歩一歩。
「アレ」とか「アレ」とか、
そのまた「アレ」とかに
何度も脅され、誘惑されながらも、
時には泣きながらでも、
「引きずってでも」こいつ(自分)をゴールに持って行こうとする、
別の自分がいる。
そして目には見えない力と。
Healing takes as long as it takes.
癒しはかかる時間だけかかる。
そう、ゴールは設定されているけれど、
それぞれに必要な時間がかかる。
それは知らせてもらえない。
けれど、もう信頼するしかないのです。
どんだけジタバタしようが、
泣きわめこうが、
ある時は、ちょっと流れに身をまかせる余裕があったり、
ある時は、すごい頑張ったり、
なんか疲れたとか言って放っておこうが、
その全ての過程がLiberationというゴールへの道に含まれての、
it takes as long as it takes
ということを信頼する、ということでしょうか。
私は今ようやくその辺りに来られたような気がします。
今年は随分と、
大きなLiberationゴールの設定をされたなとつくずく思います。
これまでの長年のガラクタを今ゴソッと解放しないと、
アンタ、先に行けないよ、と言われているようで。
そして、どんだけのガラクタを私は背負ってきたのかということにも、
すごく驚きました。
そして、それが心地よくなっていたのでしょうね。
恐ろしいことに。
長年の心地いいガラクタを解放するということは、
「それがもう存在しない、いやそれらにもう翻弄されない、
全く知らない世界」が待っているということで、
それはそれは怖いのです。
だから、Liberationというと、
いかにも爽快で素晴らしい感じがしますが、
それを経験する前というのは、
未知の世界ですから、
怖いのです。
でも、ヒーヒー、怖い怖い、涙と鼻水の道も、
少しずつゴールよりになってくると、
つまりLiberationというのがどういうことか垣間見えてくると、
恐怖におののいていたマインドも、
あ・・・そうなの?
あら・・・いけるかも?
と、味方についてきてくれるのです。
そうすると、不思議と、
濃い煙で見えなくなっていた、
感じることができなくなっていた、
本来の自分を少しずつ感じられるようになってくるのです。
これまた、
あら・・・素敵じゃない?
この「私の感じ」・・・なんか好き。
とか、なったりしてね。
ちょっとずつだけれど。
今日のサブタイトルの
「ビクビクからワクワクへ」というのは
そこからのお話なのです。
Liberation、マジの(胡散臭いとは言われようと)癒しというのは、
ビクビク→中間→ワクワク
というプロセスだと思うのです。
私のビクビク期間は本当に長かったのですが、
少し「ワクワク」というのを垣間見ることができるようになって
私は今まさにIn Between(中間)のところにいると思います。
まだ片足は若干過去のビクビクに。
でも、その足を完全に離すのももう少し。
もう片足はワクワクという未来へ。
It takes as long as it takes
焦らず、慌てず、
今こそ、亀!(←マイブーム)のように、
一歩一歩。
ワクワクのLiberationへ。
ワクワク、アッハハ〜〜!の自分の方が私は好きだ。
それこそ自由じゃない?
「自由の女神」がカモン、カモンと呼んでいるよう。
Yes, I am! And you, my beloved one, have always watched and loved true me that I myself have forgotten.
Because of you, I have realized. I'm coming back to myself. Slowly and surely. Back to you as Miss Brand-New Way.
*聴くブログ!?「Soul Quest Sound Blog」という
ラジオなようなものを勝手に作って展開しております!
このブログの調子が、そのまんま私のトークと音楽で展開されています。
このブログのカテゴリー「Sound Blog」から是非どうぞ!
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↓私の過去のlLIVE映像などはYoutubeでアップしています
https://www.youtube.com/channel/UCZiH2XUoIk7XVpWLuowKDUA
『自由の女神』を思い出す方も多いと思いますが。
英語だと
『Statue of Liberty』
となりまして、
そのまま訳すと
『自由の像』になっちゃって
(多分)味気ないから、女神、にしたのかな、
とか勝手に推測しています。
Statueはともかくとして。
問題(?)はLibertyの方。
自由、と聞くと、Freedomじゃん?
Statue of Freedomでもいいじゃん?
って思いますでしょ?
確かにLibertyもFreedomも自由と訳せるのですが、
何が違うかっていうと、
Libertyというのは
動詞「Liberate」、つまり「解放する」、
の名詞形。
『解放』という意味合いが強いのです。
個人的に感じることですが、
「解放する」って、動き、じゃない?
Freedomという自由という状態を指しているのと比べると、
Libertyというのは「自由へ向かう=解放する」という動きを感じる。
アメリカの歴史や文化を考えると、
ぴったりな感じがする。
でも今日はアメリカのお話ではなくて、
個人レベルでのLiberty、Liberation(解放すること)のお話。
このブログのカテゴリーに
「スピリチュアル&ヒーリング」というのがあるのですが、
私、どうもヒーリング、とか、癒し、っていう言葉を使うのに
抵抗を感じるのですわ。
(致し方なく使っている)
そのものの意味に対してではなくて、
日本での(だけじゃないかもだけど)使われ方とか認知のされ方というのかしら。
どうも、やたら、まあ既に使い古されてるけれど、
なんていうか、浅い、っていうか、チャラいっていうか、
かと言って、スピリチュアル的にマジで使うと、
なんか胡散臭いっていうか。笑。
まあ、いいわ。
とにかく。
最近、私がようやく気づいたことというのは、
自分自身が「己の魂のヒーリング、癒し、の道」を歩いてきて、
(というより、強制的に歩かされてきた感があるのですが)
これって、
要は・・・
癒す、とは、解放することではないか
癒される、とは、解放されるということではないか
つまり
癒し全般、Liberation(リベレーション)に置き換えちゃっていいんじゃないの?
ということです。
癒しとかヒーリングっていう言葉にうんざり来てるから(私だけ?)
これからは、カジュアルに使う時でも、
例えば温泉に入ったりして、
「超癒されれる〜〜」ではなく、
私今、超リベレートされてる〜〜
っていうのがいいのではないかと。
・・・絶対、流行んないわ。
癒し=Liberation(解放)のお話に戻すと。
何から自分は解放されるのか。
何から自分を解放するのか。
上のように受動的に言えるし、
能動的にも言えるけれど、
自分自身の体験から気づいたことは、
癒しとは、後者の方だということ。
誰かが、何かが、解放してくれるのではなく、
自分が自分で自分を解放するということです。
じゃあ、「何から?」ということですが。
癒し、が必要であるということは、
そこに「傷」「痛み」があるということですね。
その、自分が負った傷、痛みから自分を解放すること。
それが、真の意味での癒し、ヒーリングであると思います。
じゃあ、どうやって???
まずは、それらの傷や痛みに気づいて、認めることです。
そしてそれは「過去からのものだ」ということに気づいて、認める。
そして、いかに、それらに基づいて、
自分が日々、どういう場面で、人に、事象に、
パターンとしてのリアクションしているかに
気づいて認めることです。
今、読み返しましたが、
これ確実に、
本屋さんの「精神世界」コーナーの
「ヒーリング」カテゴリーにある本・・・
的なものになっている・・・
が!
私が体験してのことだから続けるよ。
さて、「認めること」が3つあるけれど、
この過程だけでも、本当に大変なのです。
気づくこと、そして更に、認めること。
認める、ということは、もう無視できない、ということです。
つまり、もう自分は自分をそこから解放する道に入ってしまった、
ということになります。
もう戻れないよ、ということです。
でも、それはちゃんと時期があるように思います。
認める、というよりも、認めざるを得ないことになるからです。
不思議なもので。
そして、これ以上そのままでは先には行けないよ、
というある種の、Red Flagが現れるのです。
そう、どんどん辛く、苦しくなっていくのです。
そういうことが「気づけ!気づけ!」と起きてくるのです。
そこでようやく認める。
これを読んでる皆様は年齢的には大人の方々だとであろうという前提で・・・
多くの日々感じる、傷ついたとか、ものすごく腹が立ったとか、悲しいとか、
それらの根底にある「怖れ」とか、
更にそこからくる「自分を(他者から)守る。攻撃する」といったような姿勢は、
本当にその時のものですか?
過去からのものが原因のパターン化したリアクションということはありませんか?
純粋な、本当にその場でのアクションではないかもしれません。
それらは何と言っても、「人との関わり」を通して起きます。
過去に「人との関わり」を通して起きたことが、
それが傷や痛みとなったのなら、
それが癒されるまで(解放されるまで)
別の人たちであっても、あなたの中でパターン化され、
あなたのリアクションは繰り返されます。
ですから、
毎回、あなたは傷つき、心が痛むのです。
全く別の人、全く別のシーンでも、
「過去と似たような」ことを「わざわざ探して、見つけて」
「ね?ほらね?結局、そーじゃん!」と、
自分の過去からの傷や痛みをそうやって「証明」するのです。
過去からの縛りを、無意識に求めるのです。
クレイジーでしょ?!
そう、クレイジーなの。
クレイジーなのよ。
分かるかしら?!
でも、私は自分がそうであったことに気づいて認めた。
その傷や痛みがどんなものであれ、
それがいつ、とか、誰から、とか、
人それぞれの生きてきた道がありますから、
それぞれのシーンがあったと思います。
もう覚えてないこともあるかもしれません。
頭から記憶がなくなっても、
心がまだそこにいることだってあります。
どんなものであれ。
人を通して傷ついて、
ずっとそこにいると、
自分を肯定できなくなります。
自分をちゃんと評価してあげられなくなります。
自分なんか、となります。
自信なんて言葉は自分とは縁がない、と思うようになります。
つまり、自分が自分という人間を、
そのままで、無条件に、愛してあげられれなくなります。
そうすると、自分は人に愛される価値などないとなります。
だからそうすると、
自分は人に愛される価値などはない、という証明をあちこちに
無意識で探すようになるのです。
「ただ起きていること」としてフラットに観るのではなく、
過去のこととダブらせて観るのです。
たとえ今の目の前の相手が自分を愛していようとも、
「そんなはずはない、だって」と「愛させない」ないようにするのです。
それが一人の相手だろうが、複数の人たちでも。
それがどんどん自分を本来の、
つまり傷や痛みがない、
ピッカピカの自分から遠ざけてゆくのです。
そうやって生きることが、
そうやって人と関わることが、
どんなにか辛いものか。
自分になぜそんなにも意地悪になるのか。
しかも、過去の、遠い昔の「アレ」とか「アレ」が
未だに主権を握ってるなんて、
そんなアホらしいことはない。
本当の自分はそんなんじゃない。
「アレ」とか「アレ」で価値がなくなるような、
そんなやわいものじゃない。
それらを許せずに、いつまでもそこにしがみついているのなら、
今とこれからの自分がかわいそうじゃないか。
もう、いいじゃないか。
もう、十分、長い年月、傷ついて、悲しんで、
自分を必死に守って、頑張ってきたじゃないか。
今更許すことも、そこから手を離すことも怖いほど、
その場所が心地よくなるほど、
もう、十分にそこにいたじゃないか。
もう、それらの体験を勇ましく「叡智」に変えて、
大切な学びとして、
まっさらになって、前に進んでもいいんじゃないか。
Liberationとは解放するということ。
それは、自分がするChoiceだと思います。
そして、簡単なことではありません。正直。
何なら、元の場所でヒーヒーやってた方がいいと思うかもしれません。
でも、一度、解放の道を歩み始めると、
元に戻ろうとしても、もう戻れない、ようになっている。
戻ってしまったような気がしても、
そのスパイラルの道のちょっと上に行ってる。
同じように見えても、ちょっと上に行ってる。
Liberationというゴールはすでに設定されていて、
一体こんな状態の自分をどうやってゴールの持って行くんだ、と思っても、
持っていかれる。
毎日毎日一歩一歩。
「アレ」とか「アレ」とか、
そのまた「アレ」とかに
何度も脅され、誘惑されながらも、
時には泣きながらでも、
「引きずってでも」こいつ(自分)をゴールに持って行こうとする、
別の自分がいる。
そして目には見えない力と。
Healing takes as long as it takes.
癒しはかかる時間だけかかる。
そう、ゴールは設定されているけれど、
それぞれに必要な時間がかかる。
それは知らせてもらえない。
けれど、もう信頼するしかないのです。
どんだけジタバタしようが、
泣きわめこうが、
ある時は、ちょっと流れに身をまかせる余裕があったり、
ある時は、すごい頑張ったり、
なんか疲れたとか言って放っておこうが、
その全ての過程がLiberationというゴールへの道に含まれての、
it takes as long as it takes
ということを信頼する、ということでしょうか。
私は今ようやくその辺りに来られたような気がします。
今年は随分と、
大きなLiberationゴールの設定をされたなとつくずく思います。
これまでの長年のガラクタを今ゴソッと解放しないと、
アンタ、先に行けないよ、と言われているようで。
そして、どんだけのガラクタを私は背負ってきたのかということにも、
すごく驚きました。
そして、それが心地よくなっていたのでしょうね。
恐ろしいことに。
長年の心地いいガラクタを解放するということは、
「それがもう存在しない、いやそれらにもう翻弄されない、
全く知らない世界」が待っているということで、
それはそれは怖いのです。
だから、Liberationというと、
いかにも爽快で素晴らしい感じがしますが、
それを経験する前というのは、
未知の世界ですから、
怖いのです。
でも、ヒーヒー、怖い怖い、涙と鼻水の道も、
少しずつゴールよりになってくると、
つまりLiberationというのがどういうことか垣間見えてくると、
恐怖におののいていたマインドも、
あ・・・そうなの?
あら・・・いけるかも?
と、味方についてきてくれるのです。
そうすると、不思議と、
濃い煙で見えなくなっていた、
感じることができなくなっていた、
本来の自分を少しずつ感じられるようになってくるのです。
これまた、
あら・・・素敵じゃない?
この「私の感じ」・・・なんか好き。
とか、なったりしてね。
ちょっとずつだけれど。
今日のサブタイトルの
「ビクビクからワクワクへ」というのは
そこからのお話なのです。
Liberation、マジの(胡散臭いとは言われようと)癒しというのは、
ビクビク→中間→ワクワク
というプロセスだと思うのです。
私のビクビク期間は本当に長かったのですが、
少し「ワクワク」というのを垣間見ることができるようになって
私は今まさにIn Between(中間)のところにいると思います。
まだ片足は若干過去のビクビクに。
でも、その足を完全に離すのももう少し。
もう片足はワクワクという未来へ。
It takes as long as it takes
焦らず、慌てず、
今こそ、亀!(←マイブーム)のように、
一歩一歩。
ワクワクのLiberationへ。
ワクワク、アッハハ〜〜!の自分の方が私は好きだ。
それこそ自由じゃない?
「自由の女神」がカモン、カモンと呼んでいるよう。
Yes, I am! And you, my beloved one, have always watched and loved true me that I myself have forgotten.
Because of you, I have realized. I'm coming back to myself. Slowly and surely. Back to you as Miss Brand-New Way.
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