『妄想する』という言葉は、
本来は精神科医療用語で一つの病なのですが
(ごめん、ウンチク↑)
もうここ何年も「非現実的な想像に浸る」という意味で、
一般的に使われていますわね?
(あ、因みに前回のブログを読んでくださった方、
まだ新しいPC買ってないのです。
だから例のめんどくさいやり方でやってます。
25日が新月を迎えるので26日に買おうかなあ!と
私らしく、スピらしい計画を立てています。)
で、話を戻しますと。
何か願いごとをする時というのは、
私たちは『想像』します。
大切な人の病気が早く治りますように。
お友達と仲直りができますように。
あの人ときっと素敵な再会ができますように。
試験に受かりますように。
このプロジェクトが成功しますように。
あの仕事に就くことができますように。
ほんの例えですけれど。
『妄想』というのはある種の願いではあるのですが、
それは「願いごとをするために想像する」のとは随分違うのだな、
と最近分かりました。
妄想、をする時というのは、
そこに「心」がないような気がするのです。
頭の中で自分勝手にドラマを作り上げる。
自分が浸れるような。
第三者がいる場合、一人でも、複数でも、
その人たちを「駒」にして、
自分の好きなように動かして。
だから妄想はダメ、じゃなくて、
誰しも「夢のような映画」を自分の頭の中で作る時はあって、
でも、やはりそれは「非現実的な想像に浸る」という行為。
妄想タイムが終わったら、それで終わり。
そう、映画館から出て、現実に戻る、そんな感じだと思います。
妄想もそこにある種の「願い」があるけれど、
願いごと・・・、それはある意味「祈り」に近いと思うのですが、
その時の想像というのは、
先ほども書いたように、
「心の中」で起きるような気がするのです。
心の中の想像です。頭ではなくて。
今、私の大切な友人が大きな病を宣告され、
これから闘おうとしているのですが、
私の願い、祈りというのは、
本気の願いだもの、
彼女が再び元気に、豪快に笑ってるのを、
何が何でも私は想像する。
非現実的な「妄想」などにはしない。
心の中で彼女の笑顔を想像する。
そして、私ができることはやりたい、と思っている。
「現実的に」私ができることは。
全ての具現化(現実に作り出すこと)というのは
まず「想像」、Imaginationから始まる。
想像できなかったら形にもできないじゃない?
心の中で想像する。
鮮やかに想像する。
はっきりと想像する。
自分が「叶えたい」と願っていることを。
そして、それを維持する。
維持することによって
「それを生きる」ということになるのだと思います。
ここが、妄想のように終わったら映画館を出る、のとは違うところ。
星に願いを。
心の中で鮮やかに。
願いをかけたら、
その想像を常に心の中に置いておきながら、
それを生き始める。
それを生きる、というのは、
いつ、どうやって、どこで、という未来に
常にフォーカスして心配しながら生きるのではなく、
逆にそれは「よろしくね~~!」と宇宙に投げて、
自分は今目の前のことに集中して生きる。
それに向かっている自分として生きる。
想像した願いが創造されるまでのプロセスに参加する。
「今」自分は何をするのか。
ひたすらに「今」の連続を生きる。
自分の鮮やかな想像に導かれていることを信じて。
願いごとが自分のことであれ、誰かに対してであれ、
誰かと、であれ、
喜びがそこにあるのなら、
今からその喜びを「感じて」生きてみる。
そこまでどうやって行くの?は心配しない。
流れを信じること。今を生きれ。
鮮やかに想像して、維持する、というのはそういうこと。
『妄想』が頭の中の自作自演の映画だとしたら、
『星への願い』とは心の想像を実際に「今、生きる」。
今朝、「そうか!」と思ったのです。
What is your wish, my dear ones?
ね?心の中で想像するの。
本来は精神科医療用語で一つの病なのですが
(ごめん、ウンチク↑)
もうここ何年も「非現実的な想像に浸る」という意味で、
一般的に使われていますわね?
(あ、因みに前回のブログを読んでくださった方、
まだ新しいPC買ってないのです。
だから例のめんどくさいやり方でやってます。
25日が新月を迎えるので26日に買おうかなあ!と
私らしく、スピらしい計画を立てています。)
で、話を戻しますと。
何か願いごとをする時というのは、
私たちは『想像』します。
大切な人の病気が早く治りますように。
お友達と仲直りができますように。
あの人ときっと素敵な再会ができますように。
試験に受かりますように。
このプロジェクトが成功しますように。
あの仕事に就くことができますように。
ほんの例えですけれど。
『妄想』というのはある種の願いではあるのですが、
それは「願いごとをするために想像する」のとは随分違うのだな、
と最近分かりました。
妄想、をする時というのは、
そこに「心」がないような気がするのです。
頭の中で自分勝手にドラマを作り上げる。
自分が浸れるような。
第三者がいる場合、一人でも、複数でも、
その人たちを「駒」にして、
自分の好きなように動かして。
だから妄想はダメ、じゃなくて、
誰しも「夢のような映画」を自分の頭の中で作る時はあって、
でも、やはりそれは「非現実的な想像に浸る」という行為。
妄想タイムが終わったら、それで終わり。
そう、映画館から出て、現実に戻る、そんな感じだと思います。
妄想もそこにある種の「願い」があるけれど、
願いごと・・・、それはある意味「祈り」に近いと思うのですが、
その時の想像というのは、
先ほども書いたように、
「心の中」で起きるような気がするのです。
心の中の想像です。頭ではなくて。
今、私の大切な友人が大きな病を宣告され、
これから闘おうとしているのですが、
私の願い、祈りというのは、
本気の願いだもの、
彼女が再び元気に、豪快に笑ってるのを、
何が何でも私は想像する。
非現実的な「妄想」などにはしない。
心の中で彼女の笑顔を想像する。
そして、私ができることはやりたい、と思っている。
「現実的に」私ができることは。
全ての具現化(現実に作り出すこと)というのは
まず「想像」、Imaginationから始まる。
想像できなかったら形にもできないじゃない?
心の中で想像する。
鮮やかに想像する。
はっきりと想像する。
自分が「叶えたい」と願っていることを。
そして、それを維持する。
維持することによって
「それを生きる」ということになるのだと思います。
ここが、妄想のように終わったら映画館を出る、のとは違うところ。
星に願いを。
心の中で鮮やかに。
願いをかけたら、
その想像を常に心の中に置いておきながら、
それを生き始める。
それを生きる、というのは、
いつ、どうやって、どこで、という未来に
常にフォーカスして心配しながら生きるのではなく、
逆にそれは「よろしくね~~!」と宇宙に投げて、
自分は今目の前のことに集中して生きる。
それに向かっている自分として生きる。
想像した願いが創造されるまでのプロセスに参加する。
「今」自分は何をするのか。
ひたすらに「今」の連続を生きる。
自分の鮮やかな想像に導かれていることを信じて。
願いごとが自分のことであれ、誰かに対してであれ、
誰かと、であれ、
喜びがそこにあるのなら、
今からその喜びを「感じて」生きてみる。
そこまでどうやって行くの?は心配しない。
流れを信じること。今を生きれ。
鮮やかに想像して、維持する、というのはそういうこと。
『妄想』が頭の中の自作自演の映画だとしたら、
『星への願い』とは心の想像を実際に「今、生きる」。
今朝、「そうか!」と思ったのです。
What is your wish, my dear ones?
ね?心の中で想像するの。
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