![]() |
NHK大河ドラマ 葵 徳川三代 完全版 第壱集 [DVD] |
■冒頭解説
合戦のミニミニ知識みたいな解説。
この当時、馬上武者1人には徒歩5人が相場。合戦ともなれば、食事の世話、宿の調達などなど兵站部隊も大人数となる。1万石あたり約250人が相場。
兵站を担う様々な人々を必要とする合戦では、いわゆる雑兵は外で野宿となる。そのため、冬は1日で終わるもの以外の合戦はしないのが暗黙の了解。秋の刈入れが終わってから戦を始めるのも大事なエチケット。というわけで、関ヶ原は絶好の合戦シーズンにあたっていた。
慶長5(1600)年8月8日、石田三成(江守徹)は、正義は必ず勝つと言い残し居城佐和山で家族に別れを告げる。
徳川家康(津川雅彦)は、引き続き三成方の動向を探り、対策に余念がない。気になるのは当然、豊臣恩顧の大名、福島正則(蟹江敬三)等の心変わり。佐竹義宣対策として、佐竹の茶の湯の師匠である古田織部に周旋を頼み、家康に加担すれば会津をくれてやるなどと言わせている(!!)。
一方の淀殿(小川真由美)は、動向がよくわかっていない。家康の大きさを知る片桐且元(小林稔侍)は三成方に付かせる気はないが、表立ってそうとも言っていない。
そうしている間にも両軍は少しづつ、中間点となる尾張を目指し東西から進んでくる。
8月10日、東軍は浜名湖あたりまで到達。
石田三成は、美濃大垣城に入る。すぐ近くの岐阜城の織田秀信(織田信長の嫡孫)は三成に加勢。丹後田辺は細川藤孝がまだ抵抗を続けている。西軍は、美濃から尾張に入るのが目標。しかし、今のところその尾張内の城を明け渡してもらえていない。場合によっては合戦が必要。諸将はさらに小早川秀秋の動向が不審であると疑っている。三成は、自分にまかせろと話しを引き取る。
8月14日、東軍、清洲城に入る。城主は福島正則。三成に清洲城を明け渡せといわれていたが冗談ではないと笑いとばす。小早川は内応に確約を与える。三成勢との合戦は、大垣と清洲の間が濃厚となる。
清洲城の東軍の主体は、福島正則(蟹江敬三)、黒田長政(山下真司)、池田輝政(苅谷俊介)、加藤嘉明(早坂直家)、藤堂高虎(田村亮)、田中吉政(斎藤志郎)など豊臣家子飼いばかりの総勢5万。しかし、まだ家康は江戸にいる。
豊臣家子飼いばかりが頭を突き合わせて5日、家康がなぜ来ないのか、自分たちを捨石とするつもりかと疑念が膨らむ。諸将、特に福島正則は怒り始める。
8月19日、江戸から村越直吉(阿南健治)が家康の使者としてやってくる。家康は風邪、出馬は日延べ、先陣の諸将が旗幟を鮮明にしなければ家康は出てこないという。
怒る者もいたが、福島正則は、奮起する(というより、逆上して合戦方向に奮起した?)。動きがあったことを知った西軍は、援軍を遣わす。岐阜城と大垣城の間でこれを止めるプラン。
8月21日、東軍二手に分かれて岐阜城に向かう。その間、池田輝政と福島正則が功を争い、不和となるが、8月23日、岐阜城は落城。織田信秀は信長公の嫡孫ゆえに斬首を免れ、仏門に入る。
岐阜城が落ち、西軍は墨俣川を渡河し防戦するも戦況不利。三成は兵を大垣城に引かせることを決意。毛利輝元の出馬を要請。本来ならば伊勢路を進む別働隊からの援軍も間に合わない。島津義弘は、墨俣川を生命線とするべしと進言するが入れられない。三成は島津勢の兵力が小さいため義弘を侮っている。
8月24日、秀忠、徳川精強部隊3万8000を率いて宇都宮城を発信。そのまま中仙道を西に向かう。
■史実周り
この回は、かなり難しい回かも。このへんの基本書がいわゆるfurther reading。
また、地図が頭に入ってないと理解が難しい。でもまぁとにかく、東と西から岐阜県を目指すと考えれば大筋でOKか。
大垣城を中心としたマップ google
さらに便利なのはこれ、