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葵徳川三代 第5回 反主流

2012-02-05 14:47:01 | 葵徳川三代(2000)
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■冒頭解説
太閤秀吉亡き後群雄割拠する中家康は、伏見城を選挙し、続いて豊臣家の牙城大坂城の西の丸に居座り本丸同様の天守閣を作らせる有様。「傍若無人というか手がつけられぬというか」by 光圀

当時の石高ベスト10




慶長5年正月。大坂城では本丸で豊臣秀頼が淀殿と年賀の拝礼を受け、西の丸では家康が拝礼を受ける。家康は、上杉景勝(上條恒彦)の家臣藤田信吉(和田周)に、景勝に上坂あるべしと申し伝えるよう言い渡す(異心のないことを誓いに自分で来いとい意味)。

石田三成(江守徹)亭では、島左近(夏八木勲)、蒲生郷舎(竜雷太)、石田正継(内藤武敏)が、将棋盤を前に家康対策を思案中。いわく、大坂には秀頼と家康という王将が2つある。(このままでは家康に押し込まれるから)事態を打開するために、家康をつり出し、その間に豊臣恩顧の大名で大坂城を占拠する。たとえ家康が攻め返してきても、秀頼に弓矢は引けまい、という作戦。

三成は、佐和山に母の菩提寺を建立。父親は喜んでいるが、妻おりん(高橋恵子)は大坂に人質として置かれている三成の嫡男(隼人正)の安否を気遣う。そこに家康の使者が使わされる。隼人正は家康の偏諱をもらい「重家」と名づけたという。三成は喜ぶが、島左近、蒲生郷舎らは苦々しくそれを見つめる。

一方、江戸の秀忠の元に、藤田信吉が上杉を見限ったとして駆け込んでくる。藤田は大坂で家康に言われたとおり上杉の上坂を促したが直江兼続にはねつけられたという。それどころか直江ら上杉勢は、会津で、蒲生氏より受け継いだ若松城ではなく神指原に城を作り戦の構えだという。

聞き及んだ大坂の家康は、増田、長束、前田の三奉行を前に、上杉を断固許すべかからず、征伐に向かうべしというが、三奉行はまず毛利、宇喜多(五大老)に諮り、その上で秀頼の裁断を仰ぐべきという。毛利、宇喜多は慎重論。

4月、家康は上杉に使者を遣わし詰問する。上杉方はしかし、激烈なる返書にてこれに応える。家康激怒か、と思えばさにあらず、「景勝め、もう逃れられんぞ」と上杉が策にはまったと満足する。このたびの獲物は120万石だとさえ言う。

家康は、会津征伐を公言しはじめる。聞き及んだ石田三成らは、「やっと薬が効いてきた」とこちらも歓迎。

一方の豊臣家は、片桐且元が家康を訪ね、上杉も家臣、家康も家臣、家臣同士の争いであり、上杉は別に秀頼に逆心を抱いているわけではないという理屈で、この度は秀頼はこの件を預かり知らぬものとするという。家康は、国政を預かる自分に逆心を抱くのは、主である豊臣家への逆心ではないのかと詰め寄る(ふりをする?)が、且元は聞き入れない。三奉行たちも、秀頼が関知しないなら自分たちもしないと会津征伐への連署血判を拒否。

秀忠夫人に第三子誕生。千姫、珠姫に続き、勝姫と女子が続く。

6月2日、会津征伐の陣触れが出され、前日に秀頼より金2万両、米2万石を下賜された家康は、16日大坂城を出発(淀殿は、常陸に流された大野治長を連れて帰ってくれと家康に頼む)。


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