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葵徳川三代 第8回 多数派工作

2012-03-17 13:56:20 | 葵徳川三代(2000)
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■冒頭解説

数は力。戦となればそれこそ数が頼り。家康が慶長5年(1600年)7月から9月までに書いた書状は、確認されているだけで180通。多数派工作の跡が残っている。これに対し、三成のそれは5、6通。しかし、これは、その後徳川時代になったのだから、家康からの書状は子々孫々まで役に立つが、三成からのそれは不穏極まりないので捨てられたのではあるまいか by 光圀。

 

7月24日、家康は小山に到着。
黒田長政(山下真司)は、毛利家の吉川広家から内応の条件を家康に披瀝する。(長政は西でも東でも内応ネットワーク鋭意構成中)

上杉は現在のところ動いていないが、家康次男の結城秀康、養父である結城晴朝、家康三男秀忠が対応することで合意。最上は家康が動くなと命じている。

家康が語る基本方針は、上杉勢を南下させてはならない、北へ追いやれ、というもの。佐竹義宣は石田三成と気脈を通じている模様で、もしここが裏切れば、相馬も岩城も尻馬に乗りかねない(南奥州、常陸=現在の福島県から茨城県が混乱する)、伊達政宗が頼り。

続いて、近畿で三成らが挙兵に及んだことが明らかにされ、対策を練る。豊臣恩顧の大名らの動揺を収めなければならない。家康は黒田長政に託し、福島正則を説得させる。

家康に付き、三成に抗するのは、豊臣家を守るために獅子身中の虫を退治するため、と長政は説得し正則は憤激しつつも納得する。

翌朝、いわゆる小山評定。家康は、随行してきた大名らを前に大坂の様子を話し、「諸侯が三成に加勢しても家康少しも恨み申さず」と切り出し、望まれる方は即刻大坂に戻ってもかまわない、行路の無事は家康が保証する、とまでいう。一瞬の緊張の後、福島正則が、豊臣家ご奉公の志に異変はないのかを確認し、家康に随行することを宣言する。

戦評定の結果、豊臣恩顧の大名たちは松平忠直を総大将に西へ向い、上杉対策は結城秀康が関東の手勢で対応、家康、秀忠はしばらく関東の様子を見た後、西への後詰として出発となる。
真田家は、父昌幸と次男信繁は上田城に引き上げ西軍に付くこととなり、長男信幸が本多忠勝に伴われて(忠勝は信幸の娘婿)家康軍に参じる。

秀忠は、なぜ自分が総大将となり西へ向かわないのかと家康に問い詰めるが、家康は、今自分たちが動けば、伊達政宗は安心して戦えなくなるだろう、という(つまり、南関東の旧結城領、伊達政宗を筆頭とする奥州真ん中が裏切らないという状況ができるまでは、徳川は動けない、ということ)。

増田長盛から「内府ちがいの条々」が届く。そこには三奉行の名が記されている。家康、ひょっとして淀殿を取り込まれたのでは、と動揺する。(しかし、淀殿周辺は、片桐且元主導の、これは臣下同士の争いであるからどちらにも加担しないという方針が堅持されていた)



家康は、既に西へ向かっていた黒田長政(山下真司)を相州から引き返させ、福島正則(蟹江敬三)に気をつけろ、もし異変あれば松平忠直は病と称し江戸に戻せ、毛利一族の吉川、小早川を所領倍増で寝返らせろ、と申し付け、秀忠を小山に残し、自分は江戸に戻る。



■史実周り

関ヶ原合戦前後の徳川家康文書 wikipedia

タイムライン:秀吉没す~関ヶ原へ

石田光成と真田昌幸

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