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葵徳川三代 第13回 三成最期

2012-03-28 22:24:13 | 葵徳川三代(2000)
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■冒頭解説
関ヶ原の合戦は本戦だが、地方でも東西軍が激突していた。
奥州では、伊達が家康の西上を聞き、上杉と和睦、上杉軍の直江は最上と交戦
取り残された大垣城では、三成の娘婿らを殺害しその首を東軍に差し出し東軍に降伏
丹後田辺城では、細川幽斎が2ヶ月もの間篭城していたが、朝廷からの和議の斡旋を蹴っていたが、9月12日勅命により講和。


大坂城では、大津城の戦いで大活躍をしたものの関が原に間に合わなかった立花宗茂(大和田伸也)が、毛利軍がほとんど無傷なのだから、まだ体制を立て直して戦闘可能であると主張。しかし、毛利輝元、秀元らは吉川広家の妨害、小早川秀秋の裏切り等々を言い募り、はっきりしない。そもそも毛利輝元は所領が安堵されるならどちらでもいい風。増田長盛は和睦を主張。立花宗茂は怒って筑後に戻る。

さらに、毛利勢が戦に参加していないことに憤る。毛利秀元(輝元の養子、甥)は、吉川広家が邪魔をしたと弁解。しかし輝元は、広家はどちらにも付かず、毛利一族の安堵を図ったと弁解する。

9月20日、草津に本陣を構える家康のもとに、毛利から所領安堵と引き換えに大坂城を明け渡すとの連絡が入る。

秀忠到着。家康は会わないという。その間も、小西行長、安国寺恵瓊など落人となった武者等が捕まっていく。秀忠と同道していた榊原康政(清水紘治)、家康に申し開きをする。本多正純も加わり、家康に懇願する。弟の松平忠吉も懇請に加わる。

康政は切腹するといい、正純は秀忠の戦目付けは自分の父親なので父の首を持ってくると言い出す始末。

逃亡中の三成、ついに発見される。

家康、度重なる懇願に屈する形で秀忠に対面。秀忠の謝罪を受け、家康はあるいは大坂で一合戦あるやもしれず、二度と遅れるなといい、なぜか笑う(最高度に恐縮した秀忠と心から秀忠の面目を支えようとする忠臣に家康満足、という感じ。)

一方、江戸では、秀忠の遅参を聞いたお江がひょっとして切腹させられているのではとしょげている。阿茶局はそんなことはないという。阿茶とのお江のやり取りで、秀忠がもし東海道を行っていたら、三成が中仙道を江戸に向かっていたかもしれないのだから、秀忠の中仙道行軍は結局役に立っているという話になる。

毛利輝元大坂城退去、前田玄以、増田長盛、国許に引きこもる。長束正家は自害。

三成は、家康の引見を受けるべく大津城に連れてこられる。門前に縄付きで座らせられる三成に対し、福島正則は罵倒し、黒田長政は丁寧な挨拶を述べ三成に陣羽織をかける。小早川秀秋を見つけるや三成は卑怯者と断罪する。諸将らは誰もそれを否定しない。

家康は、仮にも19万石の大名であるとして三成の縄目を解かせ、床几を与える。三成は、これが最後と、家康、豊臣家の禄を食みし諸大名たちに向け、秀頼への奉公を忘れてくれるなと一世一代の演説をぶつ。家康は怒らない。

慶長5年10月1日、石田三成、安国寺恵瓊、小西行長、処刑。

三成辞世
筑摩江や芦間に灯すかがり火とともに消えゆくわが身なりけり


■史実周り

立花宗茂と携帯電話もしくは草のもの


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