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天下人の時代―16~17世紀の京都/朝尾直弘・田端泰子 編

2012-01-10 17:55:15 | 参考資料-戦国
天下人の時代―16~17世紀の京都
朝尾直弘・田端泰子 編
平凡社



2000年に京都橘女子大学で行われた公開セミナーを筆記、編集した本。全部面白かった。

朝尾直弘先生の「天下人と京都」は、とても深いテーマ。締めくくりだけを取り出すのはお行儀がいいことではないけど、

「京都へ京都へと天下人が、戦国大名が集まってきたのは官位だけの問題ではありません。京都には蓄積された伝統文化と、指導者、創造者、本家本元が層をなしていいました。秀吉は宋易や宗及たちと一緒になって、茶を点てたりすることによって、自分自身を演出し、みずから文化の規範であり、保護者であるというイメージを演じきり、地方の大名たちに、「京都の文化にはかなわない」という意識を植え付ける役割も果たしました。そういうことができるのが天下人だと、人々に知らせる役割も果たしていたと思います」

とおっしゃっていらっしゃる。まさにその通り、芸能の持つ力は本当に大きい。それはイメージだけでなく、実働部隊があることが大きいと思う。さらに実利も伴うからようよう失せない。本家本元が層をなし、その家元から地方でそれを伝播させる役割を担う人々まで、天下が動乱しようが続いている系統みたいなものがあっただろうし、しかもそれは武力では覆せない(ある意味で、アメリカを含む西欧近代における教会という制度が似てるかも、など思う)。こうして規範ができあがって、知らず知らずのうちに京こそ中心、という意識ができあがる。

しかし、だからこそ、頼朝は鎌倉に、それを踏襲した(と私は思ってる)家康も江戸に新しい都市を建設したのだろうな、と、先生のお話とは逆のことを考えたりもした。

「北政所と淀殿」(田端泰子氏)の、北政所の所領についてのお話も興味深かった。秀吉の生前に1万石以上の所領を与えられている(一般的に多いのは現在同様亡くなる前のいわゆる遺言みたいなもののようだ)。その時期というのは、秀吉の最初の子、鶴松が亡くなり、秀次が関白になり、鶴松の養育という任も離れたおねは聚楽第から大坂城に移った年なのだという。セミナーでテーマもそこにはないからお話は別のところに行ってしまうのだが、私としてはこの所領の変遷を知りたいと思った。今後のお楽しみ。


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