G20だというので大阪に世界中のエライ人たちが集まって、もう大変なお祭り騒ぎらしい。NHKを見てたら岩田明子が目を赤くして賢明に何やら解説していたが、ご飯の都合の方が重要だったのでそこは聞いてなかった。聞く意味ないし。
今回は、米中の協議の問題もあるんだろうし、イランの問題もあるだろうけど、RICの動向も注目でしょう。RICとはロシア、インド、中国の略称でこれがユニット化され蜜な会合を持ってる。中国は一国でも大きいけど一国で残り全部を敵にまわすほどには強くない。ロシアもインドも同様。この3国がそれを理解し始めたことが昨今の地殻変動を決定づけたという恰好になりつつあるといったところ。
それはそうと、G20を前にしてFinancial Timesがプーチンにインタビューをしていた。
Putin Eviscerates Liberalism, Calling It "Obsolete", In Wide-Ranging Interview Ahead Of G-20
多分、このインタビューそのものが今後のFTなどの「リベラル帝国主義者」たちの画策の一環だと思う。日本でも、最近、リベラルを敵視するプーチンの本が出てましたね。
実際気になる傾向はあるんですがそれはロシアではなくて、ロシアにかこつけて勃興してきたクリスチャンシオニストの一群というべき人たちだと思う。が、それを曲解してロシアが火をつけたとしている。多分、日本では受け入れられるだろうけどアメとか欧州じゃ本質的に無理だと思うけどね。
そこらへんは今後また言及することはあると思うけど、プーチンの発言は基本的に別に新しいことを言ってないし、今まで何度も言ったことのまとめみたいなもの。
Zerohedgeが読みやすいようにまとめていた。これ便利。
1つだけ目についたところ。
リベラルは単純にいって誰に対しても何も決められない(指示できない)。それはちょうど彼らが過去何十年かやってきたように。
“[Liberals] cannot simply dictate anything to anyone just like they have been attempting to do over the recent decades.”
こういうのを見ると、自由の価値を貶めてるプーチン、みたいにつり出しやすいわけだけど、実際問題、リベラルな価値観というのは一定の秩序の中でやってる分には補正やバランスにとって有効だしその分だけ個人の幸福を導くものではあるだろう、ぐらいは言えるけど、その価値を至上のものにしていってどうするのよ、ってことだと思う。
つまり、文脈や優先順位なしに、「自由を!」とか言う奴らには気を付けましょうと言ってもいいかもしれない。例えば、労働者が意思をもって話し合いをしている絵を描いた人が、憲兵に通報されて収監されて「転向」させられるみたいな場合には(現実の日本の1930年代)、考える自由、表現する自由、そういうことを集団で行う自由、みたいなものを持ちたくなる。
しかし、ではその人たちが集団になって当時の為政者を倒した場合、その時からその人たちは何らかの秩序を作らないとならない。するとそれは、どこかで誰かの自由を奪うことになる。
と、こんなことを今更言うまでもない簡単なことなんだけど、リベラル集団と思しき人々は、過去何十年か、全体主義だの社会主義だのを敗北に追い込んだというつもりで、リベラル、自由なんちゃらかんちゃらを何か至上の価値観のように言い習わして来て、そのうちその意味を考えるのさえ忘れていったんじゃないかという気がする。
しかも、現実には、こういうのを大声で語る人たちは、結局のところ自分たちはソフトな軍事支配権力の側にあって、大量の資金を持ちながら(つまり資本力と物理的な支配力、つまり軍事力を持ちながら)、ターゲットとなった国や地域の人たちに「何よりも自由」みたいなことを吹き込んで暴発させ、寄る辺なき人々をさらに寄る辺なき人々にすることに邁進してきた。
そして、これらの人々は、ウクライナで起こった禍々しい事件の数々を顧みる、つまり反省する契機さえ持たない。
これはつまり、彼らが、犯罪を犯す自由、人殺しをする自由、爆破する自由、建物を木っ端みじんにする自由、インフラを破壊する自由、人の生活破壊基盤を破壊する自由、捏造する自由、騙す自由、偽装する自由、目撃者を射殺する自由を謳歌したということになるのだろう。
というところで、もういい加減このへんで真面目に社会と秩序を考えたらどうだ、と誰かが言わないとしようがない状態なんだろうと思う。
ふと思えば、最近の米民主党あたりを中心とした「リベラル」勢よりも、まだしも、昔、自由・平等・同胞愛と言った人たちは利口だったなと言ってもみたいと思う。平等が入ると自由には自ずから制限がかかるし、同胞愛が入ると仲間を大事にする都合上、自由にも平等にも制限がかかる。それでいていて自由を否定することにはならない。なんらかの秩序を維持するための原則としては、リベラル史上主義よりよっぽど利口だった。
アメリカ人にはとても耳の痛い話だと思います。
自らの「自由」のみが独走した結果、どうなったか。
私はこちらにきて、まずモラルの低さに驚きました。
「自由」というのは「やりたい放題」という意味じゃないはず。平等とか、同胞愛とか、そういう別の倫理観で歯止めをかけないと、それこそ他者に対して暴力的になることさえある。国が「自由」唯一主義だから、国民がそうなるのか、はたまた国民がそうだから、その総体としての国に「良心」がないのか。
皮肉なのは、「自由」の守護神(のふりをしている)アメリカ、この国にそんなに自由なんかないですよ。ゲットーに生まれ、軍に行く事位しかウェイアウトがないような若者にとって、「自由」って何ですか?言動が逐一監視されている我々にとって「自由」って何ですか?
余談だけど、今日のヤフーニュースの見出しに大笑いした。英首相露へ「行動を改めよ」。主語と目的語が逆!
https://www.youtube.com/watch?v=rnkWjirTU3s
「秩序に基づく自由、自由を許す秩序。」はまさに金言だと思っています。
自由と秩序の均衡には何が必要かというのは常に頭に置かなければならない問いだと思います。今のロシアを端から眺めていると、その回答として「反省」と「歴史」を重視しているように見えます。ソ連の国家運営の失敗、90年代の「改革」の失敗、その反省の上での現在の政治があり社会があるように思います。勿論、どう反省するか、何が正しい歴史かという問題はあるのですが、テレビの議論を聞いているとこの点かなり「マトモ」な感じがしています。これは、大部分の人々が直接かなりの「痛み」を体験したことによるのではないでしょうか。(ですから現在ロシアのリベラルは若者を動員しています)この点、アメリカは「幸せ」な国ですから反省とは無縁でしょう。アメリカが反省するような事態になるということは人類のお終を意味するでしょうから、今の国際情勢には絶望しかありません。
ときどきの米国や露国在住の方、欧州に居られたと思しき方々の書込にも瞠目しております。
今回は久々に見た、自由・平等・同胞愛の文字群をよく噛みしめた次第です。
国内のリベラル言論人の、自由がなければ全体主義、独裁国家!の2択極論もたいがいだけど、敵対してる(に見える)疑似保守界隈や右側の「自由じゃないのは自己責任」的などちらにしても個の事象に帰すようなつましい世界観が気になります。
昨夜、体調を崩し職場帰りに夜間診療に駆け付けた病院の待合室では大画面TVのニュースの安倍氏と握手するプーチン氏の映像が。
かの大統領の姿を見ると、どういう訳か元気が出てしまった非国民です(笑)
お気持ちとってもよくわかります。ホームレスの話題はよくでますが、あの都市部に必ずあるスラムというかゲットーというかの存在はあまり話題になりませんね。しかし、あれはほんとにほんもののpoorだと思った。それをどうやって回復というか一定レベルにまで上げられるんだろうと思うと、この国(米)には大きな変革が必要だとしか思えなかった。
そこから考えた時ソ連は確かにスゴイ画期的なことをした面があり、どうして中南米の人が60年代にあんなにソ連を見上げるのかもわかった気がしました。教育と医療の平等を達成させそこから個々人の道を開かせるというのは凄いことだった。
ご案内ありがとうございます。私もこのへんの西部さんの考え、重要だと思ってます。
ロシアについては、おっしゃる通りソ連の中の失敗、90年代の失敗をよく省みていると私も思ってみてます。そしてもう1つは、ソ連は確かに経営に失敗していたとしても、それでも多くの人たちは一気に壊すことまで覚悟をしていないのに一気に壊した、このことを当時のソ連運営の末端にいたプーチンはとてもとても、よくなかったと反省しているようにみえます。
最近もFTのインタビューで「それらの企業は非効率だったかもしれない。しかし人々には職があった」と言ってました。
それを「自由」のために一気に無くしたとしたら、声をあげられなかった一般人は犠牲者だ、そういう犠牲を出さないよう統治機構は考えるべきである、ってことだと思います。
国内のリベラル派という人たちは一体どうして形成された人たちなんだろうかと最近考え始めています。決して、昔いた左翼ではない。
ご示唆いただいた通り、目先の個人の自由を言うことと仕組み全体としての動きを混同させていることにトリックみたいなものがあるなという感じがしています。俺は自由が好きだ、と個人が語ることと統治機構側が自由主義的アジェンダを遂行させることとは実はどこも繋がってないとも思います。
ご不調のご様子、お大事くださいませ。