さっき、我が国首相がなんば花月というお笑い芸人のあがる舞台に出演した話を書いたけど、ウクライナではそもそも今回決まったゼレンスキーという大統領がコメディアン。
ポロシェンコという国家の私物化一直線の強欲を絵に描いたようなおっさんがついに敗北して、今度はコメディアンを、ウクライナの億万長者コモロイスキーが自分のテレビを使って売り出し傀儡として送り出した。
こんな感じ。もう、ボケと突っ込みの漫才そのものの絵でどうしましょうといったところ。
ウクライナという国はソ連崩壊とともにどさくさで出来たユニットで、それ以前に一体性はなかったのに無理やりウクライナ性みたいなのを作り上げたところから滅びの道が始まった気もする。
ロシアの、あるいはソ連のウクライナ地方だった頃にはソ連をひっぱる優秀な工業地帯で、大祖国戦争における主要な戦いをいくつもしのいだ勇猛な人々の場所だった。
モスクワを持つ狭義のロシアは何度踏まれても利口で勇気のある、義務感のある人たちが上にいく構造の方が強く、実に見事に回復していった。
しかるに、ほぼ似たりよったりの人々から構成されていたウクライナはこの様。
nationって血液によるものじゃないなとつくづく思う。nationは自覚的なものだと強く思う。ロシアを愛するものはみんなロシアだという時、それはどんな顔をしているのかを問うてはいない。これがnationとethnicityの違うところでしょう。後者は生まれながらの身体的な諸特徴が強く含意されるもので、後者はもっと自覚的な集団とでもいったものだろうか。(私は歴史の共有こそnationの条件と思ってる)
この間アサンジの逮捕の動画を取った話で紹介したロシアRTの編集長はアルメニア系。
アングロ・シオニスト集団におかされたウクライナが果たしてどこまでこの漫才みたいなままで行くのかは謎だし、どこかでまた別の展開があるかもしれないが、いずれにしても惨めなものを見せられているなとしみじみ思う。
しみじみ思うのだが、これは実は日本だって同じだと思うわけですよ。
そりゃ戦前までの日本人のすべてが良かったなんて決して思わないし、戦後も玉石混交だったと思う。総じていえば、いい加減な集団だわな私たちってところは多々ある。多分、nationとさえ言えない作りなんだろうともしばしば思う(他者との中で強く自立的に自己を意識したことがないから)。
が、しかし、安倍や麻生しか出せないほど酷い集団だったんだろうか?
どうしてこんなに惨めな冗談みたいな集団になっているんだろうと、まったくもって残念だ。
70数年前には、靖国神社の持つ思想的な問題点に気づいて、この際廃止すべきであるとこと挙げできる胆力のある人がいた。
こういう厳しいことをやろうとする考えを持つ人が、今後出てこれるんだろうか?
靖国:難きを忍んで敢て提言す by 石橋湛山
そうそう、この人は元号も廃止すべしという考えを持っていた。
こういうのを今の人たちは、まぁなんてリベラルと思って受け取ってしまうんだろうけど、元号や靖国神社は日本のカルト体制を支える支柱だと気付いていたからこそヤメロと主張したわけでしょ。リベラルの要件がこれこれこれだから、これとこれを止めましょう、なんてな話ではない。そこを見ることもできない人が多数になっていることにも暗澹とする。
前の頃何度か書いたけど、やっぱり戦前の体制は自国民にとってさえ到底発展の見込みのない、ヤバい体制になっていた、という認識が欠けていることがとても問題なんだろうと思う。
そういう体制だった、だから1945年の敗戦をチャンスとして庶民は1945年までの体制でないものをもらったところから手放さなかった、それが日本国憲法、という機序が忘れられていることが、日本の屋台骨を無くした直接の原因かもしれないなどとも思う。
ウクライナのインチキなアイデンティティーの結果が漫才のようなリーダーを生み、日本のへんちくりんな歴史解釈の果てがお笑い舞台がぴったりのリーダーを生む、というのはしっかり相関してると思う。
ウクライナ、イスラエル両国間で、入植地の住民をウクライナが受け入れる代わりに、イスラエルがウクライナに対し軍事面での協力をするという仰天計画があるときき、ネットで調べたところ、数年前の記事だけど、確かにあった。
ボグロムがイスラエル建国の大衆レベルでの動機だとしたら、ボグロムの地への逆移民っていうのは、入植地の住民はどう受け止めるのだろう。ユダヤ人とシオニスト、これを混同していると、この仰天計画も理解できない。
スリランカの事件、イースターの日に教会が狙われた、どうしてマジョリティである仏教がターゲットにならなかったのだろう。同じ仏教国のミャンマーでは、ムスリムと仏教徒の対立だった。クリスチャンをターゲットにするなら、何でスリランカなのだろう???