チリで、国民投票の結果、軍政ピノチェット時代に作られた憲法との決別できるようだ。
チリ、国民投票で新憲法制定承認 ピノチェト軍政の遺産と決別
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020102600347&g=int
おめでとう!
Chileans celebrate as voting signals end of Pinochet-era constitution https://t.co/3zlVsGacfz pic.twitter.com/hz8ukqt1Q3
— RT (@RT_com) October 26, 2020
ここまでの憲法はチリクーデターの後に制定された憲法。こんな感じでここまで来た。
80年に制定された憲法は、クーデターでアジェンデ社会主義政権を倒し、非合法的に権力を奪取したピノチェト軍政を「法治国家」として内外に認知させるのが目的だった。幾度かの改正を経たものの、そもそも軍政継続を想定しており正統性に疑問が呈されていたほか、政治への市民参加が明確に規定されていないとの批判があった。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020102600347&g=int
チリ・クーデター(スペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生した軍事クーデターのこと。
世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権(アジェンデ大統領の人民連合政権)を、米国政府および米国多国籍企業による主導のもと、ピノチェト将軍(当時チリ陸軍総司令官)の指揮する軍部が武力で覆した。
アジェンデを打倒しようと米国ニクソン政権が金融テロをかまして、社会混乱を起こして、クーデターを起こして、チリを乗っ取り、その後も暗殺を含む恐怖政治が伴われた。
まぁ、今となってみれば世界中でアメリカがやってきたことの中でもやたらに目立った事件で、アメリカを含め世界中でよく記憶されているアメリカによる政府転覆劇と言えるでしょう。
このケースがつとに有名なのは、米国政府のみならず、IMFや世界銀行、先進各国がこぞってチリ政権に圧力をかけて金融で絞殺した、非常に代表的なケースだったからというのもある。
以降、IMF/世銀というのは、西側と一緒になって各国の政府を転覆させるために金融危機を使うのだ、という見通しが確立していった。
ニクソンとキッシンジャーが犯罪者扱いされる時の1つの事例でもあるでしょう。
でも、ここしかやってないわけじゃない。ついこの間、ウクライナでやったばかりじゃん!!
それなのにアメリカの中でこれを非難するグループが、1970年代のチリを巡るものより過小だというのは、アメリカの劣化を象徴してますね。
ちなみに、当時の日本政府は、もちろん、反共を理由にクーデター支持。
wkiにはこうある。
日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共主義を理由にクーデターを支持した。とりわけ民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。
■ 反共の顛末
反共なら何やってもいいという方向性がここから始まったわけではないけど、ここらへんから右派テロの輸出がかなり盛大になっていったとは言えるような気がする。
このクーデター自身での活動は知られていないけど、その後の南米の怪しい、残虐な奴らには、多分、世界反共連盟というあの糞溜組織が深くかかわっている。
ムジャヒディーン、アルカイダ、ISと続く、西側資金によるテロリスト集団の養成という恥ずべき行動の拡張はこのチリのクーデターあたりがきっかけであっただろうと考える。
■ デタント=共存時代
どうしてそうなのか。
南米のぐじゃぐじゃはアメリカが自分んちの準領土だと思ってる南米に自分の気にくわない政権ができると腹立てて人殺しに走りたくなるという強欲に基づく病という側面もあるにはあるけど、ヘルシンキ会議が開かれたことで、全体的に欧州方面が、ソ連との共存路線みたいな感じになっていたということが大きいのではなかろうか。
1973年に開かれたヘルシンキ会議は、もともとフィンランドの提案によるもので、最初誰も本気にしていなかったところからマジになったもののように見える。
アメリカは何を考えていたのか、というのは考察を要するし、結果からみればソ連騙しだったんだろうとも思うが、ともあれ
1973年にヘルシンキでConference on Security and Co-operation in Europe(欧州における安全保障と協力に関する会議)が開かれ、そこでの宣言を基に、欧州安全保障協力機構(OSCE)が出来た。
この組織は、ソ連が崩壊しても残り、今でも存在してる。ウクライナ東部の紛争を止めに入ったのもこの機構。アメリカと欧州がウクライナのクーデターの当事者で目いっぱい国連関係の機関を抑えたので、誰も紛争の停止を呼びかけるプレーヤーがいなくなった時、この機構が浮かび上がった。あってよかった欧州安全保障協力機構と言われたものだった。
(これは冷戦後の加盟国=緑、オブザーバー=オレンジ)
■ social価値の棄損の時代
振り返ってみれば、デタントを通して、世界的に緊張が解けるのだとしても、ソ連風のみんなのものは公営で何がいけないのかしら?みたいな傾向が力を持っては困る、という勢力の切り替えしの狼煙こそチリでした、ってところではなかろうか。
ここから、シカゴ学派のババッチイ学説を通して世界中で右派をかき集め、79年には、社会などというものは存在しない、でお馴染みのサッチャー首相就任に到達する。
そこから、社会主義は間違いだ → すべてを民営化すればこの世は天国!みたいな流れが作られた。
ヘルシンキ会議をやっていた頃の欧州各国は、普通に、socialな価値が大事にされる傾向が強い欧州だったと言っていいと思う。歴史的に積みあがった社会って壊したくないものがたくさんあるし、教育したいし、大戦争終わって30年ぐらいなので復興モードで作ったものはたくさんあった。
だがしかし、この傾向は打破せねば、と思う人たちが、折からのいわゆる「ユーロコミュニズム」導入と共に、大きな政府志向のsocialな政治思潮をぶち壊して、liberalを強調した。
そしてナチリベ(≒ユーロコミュニズム)とエバンジェリカルが残った
liberalは、19世紀的な意味を離れて、結局のところ、自由(liberal)と社会(social)を併存させないお宗旨となり、今のような、公のもの、パブリックなものに価値を見出せないどころか破壊しようとするトレンドにつながった、と。
どこかで折り合えなかったんだろうかね。
■ それぞれの社会があるに決まってる
今後、チリの例やらボリビアの例を見てもわかる通り、社会の棄損に異常な執念を見せた時代は、地球上の半分ぐらいのところでは終わりになるんじゃなかろうか。
というか、そもそも地球上の人口の半分以上は別にthe Westモデルに好意を寄せてもいない(笑)。
といって、別にみんながソ連になるなどという話ではない。それは当時だってそう。(そもそも、ソ連にはなろうったってなれないと思う。あれはロシアというモノ持ち集団がベースだからできたところが多大にある)
そうではなくて、それぞれの社会を大事にしようというトレンドになっていけばいいんじゃなかろうか。
つまり、one-fits-all(1つが全部に対応できる)の社会モデルはなく、それぞれの社会が自分んのところの事情に合わせて安定モデルを作ればいいだろう、って話。
こっち方面からも一極支配妄想は崩れるのが運命だって感じ。
率直にいって、アメリカの政権が売り歩くthe Westモデルこそ世界の唯一の潮流みたいな妄想はもうお終いということ。そういえば最近、我々はrule of lawだの、価値観外交だの言わないね。
■ オマケ
そういえばロシアも、チリと似たところがあった。エリチン時代に仕込まれた憲法を改正して、ロシアの独自路線を確実なものにしていた。
ロシアの(多分100年越しの)憲法改正 (2)