一昨日、文明の衝突という語のついた話を書いてふと、そういえばハンチントン氏の「文明の衝突」の日本における受容は変な感じだったんだよな、などと言うことを思った。
文明の衝突 | |
Samuel P. Huntington,鈴木 主税 | |
集英社 |
確か、アジア世界の分析が浅いという批判的なトーンが主流で、別系統として日本を単独の文明としてくれたとの喜びトーンの二極があったように思う。そして、単独の文明だがこのまま迂闊なことやってるとチャイニーズの文明に呑まれるぜ、という但し書きみたいな警告もついていたと思う。
で、私としては、分析が浅い系の話はどうでもよくて、日本を単独として見ている点に注目したし、それこそが、
日本を守ることの意味
を考えないと大変なことになるという話だと思うわけですよ。つまり、日本というのはチャイニーズの文明のスピンオフみたいなところがあるわけですね。常に融合されちゃいそうなところを、海があり、言語が異なる(というより異なる言語を守り通した、というべきでしょう)ことを最大の武器にしてなんとか護りきってる、という感じ。
だから、下手に手を出したり、下手に融和的になったりすることは何よりも気を付けないとならない、というのが私たちが密かに引き出すべき結論だと思うわけです。
それなのに、ああそれなのに、中東なんていう日本国開闢以来有機的な関係を持ったこともないようなところに行ってテロと戦うと壮語する首相がいたり、その首相を支援してきたであろう大金持ち団体の長たるおばさんは、チープに使える移民を入れるのはいいが別々に住むのがいいわ、などと発言しアパルトヘイトまがいだとの批判を受けてみたり、一体全体日本って何をしているんだろうかと思わずにはいられない。
それもこれも、単独の文明を維持するためには知恵が要るという肝心要な点が忘れられているからじゃないかと思う今日この頃。
移民政策を推進し、農業改革ならぬ農業「解放」みたいな政策を急いで進めようとし、外征に色気のある人を保守と呼ぶのは間違っている。