12月03日
夕方、日が沈んだ頃に、ニーザム・ムッディーン駅に到着した。薄暗い駅である。駅の外に出てオートリクシャを拾おうとしたがなかなか拾えない。一台つかまえたが値引き交渉をするとすぐに行ってしまった。なんだか妙である。それでもどうにか1台つかまえて、ニューデリー駅まで行き、メインバザールに宿を探した。
12月04日
メインバザールに泊まるのは初めてだが、確かに宿は多い。便利である。街には独特の活気があって、歩いていても楽しいし、興味が湧いてくる。
この辺りには牛が多い。ほとんど車が入ってこないために牛も住みやすいのだろう。それと野菜市場があって、売れ残りやかすの葉っぱなど、牛の餌になるモノがたくさんあるから、野放しの牛でも食べてゆけるのだろう。
ゴールデン・カフェはそんな野菜や果物の露天の並ぶほこりっぽい道ばたにあるレストランである。安いレストランだから、もちろんドアはない。風でほこりや排気ガスが流れ込んでくるテーブルで食べるのであるが、中華料理風の品が食べられるので日本人に人気のようである。
このレストランの掲示板には行方不明の日本人青年の尋ね人の張り紙がある。大学法学部の学生とある。どこにいるのか、生きているのか。インドで行方不明になったら、見つけるのは大変だろう。薬でやられてしまっているかもしれないし、病気で行きだおれてしまったかもしれない。インドは怖い場所ではないが、たとえば、東京と同じくらいには危険だと思う。
興味半分で薬に手を出して結局廃人同様になってしまい、それを助けようとした友人を傷つけた、なんて話をバラナシで聞いたことがある。
まずリカンフォームを済ませた。これで帰りの便は決まったわけだ。次にインフォメーションに行って、ダラムシャラーの気候とか、交通機関について情報をもらった。
ここでもタクシーを奨めるのには参った。ナンボかかると思っているのだろう。
それでも地域別のデータベースが用意されていて、コンピュータで打ち出したリストをくれた。私はデリーからバスで行くつもりだったが、バスは良くないから鉄道で行けとインフォメーションの人は言っていた。それで、この言葉には従うことにする。確かにバスで行くには長距離過ぎるように思えたからだ。
それから、ダラムシャラーに行くためのチケットを買いに駅に行った。午前11時くらいである。
駅の外国人専用の予約オフィスはすごく混んでいた。一応乗る予定の列車は決めていたのであるが、そこにいた日本人の話では2時間くらい並んでいるという。しかし、まあ、それくらいなら仕方がない。少し立っていれば座れるから、疲れることはない。外国人と云ってもパキスタンの人が多いのだろうか、インド人と区別のつかない人が多い。
なかにはぞっとするほどの美人もいる。雰囲気はインド人に近いだが、もっとアラビア風で目は憂いを含んだ深みのあるブルー。その目に吸い込まれてしまいそうになる。
カウンターで日本人がなにやらもめていた。あとで聞いてみると、両替の証明書を持ってこなかったので切符を買えなかったとのこと。彼らは、『地球の歩き方』の編集者だという。立派なカメラをむき出しで首からぶら下げているし、そう言われればそうかなと云う感じの人たちである。メンバーは3人くらいだった。「切符が買えなかったことによって予定がくるってしまったら、ここの責任にして悪く書いてしまう。」とか言いながら食事に行ったがそれっきり戻っては来なかった。
ダラムシャラーの最寄りの駅はパターンコート駅。鉄道の幹線にある大きな駅らしく、急行列車が数本走っている。
そして2時間近く並んで行きと帰りの切符を買ったのだが、ふと考えてみると午前0時25分発の列車のチケットを買うのに前の日の日付を指定してしまったことに気が付いた。気づいたから良いようなものの、こういった基本的なところでミスが出るというのは情けない。
仕方なく、キャンセルの用紙と予約の用紙に再び記入して、また1時間半並んでようやく切符を手に入れることができた。午後3時であった。
ダラムシャラーはだいぶん寒そうである。ゴールデンカフェで会った日本人は、雪でバスが行かないと聞いたとか言っているし、インフォメーションの人も寒いという話はしていた。私は薄いセーターしか持っていないから何か着るモノを買わなければいけないのだろうかと思うが、必要なら現地で買えばよいと思いなおして、結局衣類を買うのはやめにした。しかし、デリーでさえ朝晩寒いほどだから、北に400km、標高2000mの場所はかなり寒いだろうとは思った。
メインバザールには、変な服装をした人がたまに歩いている。サドゥーなのだろうが、寒い場所のためか、黄色の僧服などを着ていて、手に3ッ又の槍のようなモノを持っている。どうもシヴァの信奉者らしいが、仮装行列のようでもある。こんなスタイルの人たちが托鉢?して歩いている。
日が暮れる頃に駅に向かった。オールドデリー始発の列車に乗るのである。デリーの街も交通渋滞のためか一方通行になっているらしく、オートリクシャはずいぶん遠回りして走る。いったんコンノートプレイスに行きニューデリー駅の方に向かい、ヤムナー川の方に走り、渋滞の中を照明で彩られた広場のような所を通り抜け、ずいぶん走ってから駅に着いた。
駅前は、やはり薄暗くて混みあっていた。ホームに入っても座る場所があるかどうか分からないので、入り口の階段にインドの人たちと一緒に腰掛けて時間を潰す。入り口に金属探知器のゲートがあったり、警官が見張っていたりするが、駅員らしい人はいない。
そこでぼんやり座っていると、警官が棒を持って座っている人を追い払い始めた。私の座っているところまでは来なかったが、けっこう乱暴ではある。
寝台列車は9時過ぎに発車したが、スリーパークラスの車両に普通の2等の乗客が乗ってきて、3段ベットの上まで人でいっぱいになった。これにはまいったし、いったいどうなる事かと思う。
しかし一応決まりはあるらしく、ある駅を過ぎるとそう云った客はいなくなり、チケットを持った客だけになった。持っていない客は車掌が出入り口の通路まで追い出すのである。それでやっと寝台車らしくなった。
12月05日
朝、明るくなるにつれて外の景色が見えてくる。まるで日本の秋のような風景である。まだそれほど寒いと云った感じはない。
パターンコートについては全く情報を持っていないから、駅に着いてみないとその先ははっきりとは決まらない。狭軌の鉄道があるらしいが、バスもあるらしい。どちらでも良いと思う。まだ朝である。便はいくらでもあるように思っていたし、遅くても昼過ぎにはダラムシャラーに着くつもりでいた。
パターンコートからダラムシャラー方面に向かう狭軌の列車は、到着したのと同じホームの先端から発車していた。切符を買うのに走るほど乗り継ぎはスムーズだったが、混んでいて座れない。なんでこんなに混むのか分からない。乗客はインド人ばかりでチベッタンの顔は見えない。乗っている人々はインド人といっても肌の色の白い、目の青っぽい人が多く、南の地方ともデリーとも少し違った雰囲気である。
この狭軌の列車は8時40分発であったが、9時頃に動き出した。車両は確かに小さい。車幅は2mくらいにみえる。中央部分の左右にドアがある。
乗客がいっぱいでドアを閉めることができないほど混んでいる。
トイレも付いているが、使う人はほとんどいない。駅に止まったときに車両から降りて、線路脇で立ち小便する男の人が多い。
スピードはゆっくりである。早くても時速40kmくらいだろうか。列車は少しずつだが確実に勾配を登っている。
窓もドアも開け放たれているが、別に寒いわけでもない。線路脇には秋の花も咲いているし、南国風の木々も自生している。
しばらく行くと大きな湖があった。線路沿いの家の造りはデリーなどとはずいぶん違っていて、スレート葺きの家が多い。天然のスレートだから、当然屋根に傾斜をつけるわけで、遠目には、瓦葺きの家のように見える。
線路は単線で、1時間半くらいに一度、下りの列車とすれ違う。すれ違うときはこちらの上りの列車がいつも待つことになっているらしい。
駅に止まったときに車両から降りてみた。レールの間隔は80cmくらい、レール自体は当たり前だがしっかりした造りの本物である。また、この列車にも1等車のような車両が付いていた。ゆったり行くならそちらの方がよかったかもしれない。
線路は山沿いに蛇行していて、トンネルはほとんどない。
そして結局、カングラ・マンディールという名の駅まで4時間以上かかった。途中から座れたから良かったものの、予想外に時間がかかってしまったと思う。
カングラ・マンディールは小さな駅で、そこからさらに、ダラムシャラー行きのバスの出るバスステーションまでは2kmくらいある。このカングラマンディールというのはヒンドゥー教の寺院の名前で、そこに観光客が集まっているようであった。
この辺りまで来てもチベッタンの姿はほとんど見かけない。
カングラ・マンディールのバスステーションからバスに乗り、30分ほどでロワー・ダラムシャラーについた。ここはもう山の中腹である。ロワー・ダラムシャラーのバスステーションはなかなか立派で、多くの人で賑わっていた。ここまでくると幾らかチベッタンの人たちが見られるようになった。
亡命チベット政府のあるアッパー・ダラムシャラーへはさらに別のバスに乗って、また20分くらい登る。
検問を通り小さな教会を見ながら急坂を登りきった所がアッパー・ダラムシャラー。標高は1800m。ここも山の斜面の途中である。平坦な土地があるわけではなく、斜面につきだした尾根の上に小さな街ができていた。どことなく、奈良の吉野山の雰囲気に似ている。
例によってホテル探しからはじめる。最初にホテル・チベットに行ってみた。安い部屋でも1泊税込みで440Rs。ディスカウントは全く受け付けない。受付のおねえさんは、まるで日本人のような雰囲気のチベッタンの娘さんである。一応部屋を見せてもらったら、立派な部屋であった。しかし高いので、他をあたってみることにした。
2軒あたってみたけれど、あまりよい宿はなく、結局またホテル・チベットに戻った。このホテルの部屋の造りはかなり上等である。シャワー・トイレの造りも良いし、窓も広い。しかし、値段を考えれば二重丸のホテルである。ここのレストランは手頃な値段でチベット風のおいしい物が食べられる。
さて、どちらの道を行けばダライラマの住む場所へ行けるのかと散歩しているうちに夕暮れになってしまった。
このアッパーの街だけはさすがに亡命チベット政府の本拠地だけあってチベッタンの人が多い。
気温はそれほど低くなくて、日本で云えば秋の半ば過ぎ、紅葉前の気候である。
12月06日
シェラフだけかけて寝たら明け方寒かった。それで上から毛布をかけたらちょうど良くなった。
料金が安いのは、部屋の真上がレストランだからで、宵のうちは少しうるさかったが、真夜中から明け方にかけては本当に静かだった。
日が昇ってから屋上にでてみると、近くの緑の山の向こうにうっすらと雪をかぶった高い山が見えていた。
ゆっくりの朝食を食べてから、ダライラマ・テンプルの方に歩いて行ってみた。バス停のある小さな広場がこの街の中心で、そこから南に向かってのびる尾根の鞍部の上に、2本の道が家2軒ほどの間隔で平行して走っている。そのうちの右側の道を行くとダライラマ寺院に行ける。
ホテルから少し歩いた左手に、マニ車で周囲を囲んでいるラマ教寺院があって、チベッタンのおばさん達が参拝している。寺院の建物の中には大きなマニ車があって部屋の壁は仏画・仏像・灯明で飾られている。
通りを小豆色の僧服を着たラマ教の僧侶が2,3人で連れ立って、あるいはひとりで思い思いの方向に歩いて行く。その通りに面して土産物屋が並んでいる。
しばらく行くと道はピークを右に巻いて、人家が少なくなるが、ピークを過ぎるとまたひとかたまりの建物の集まった鞍部に出る。ダライラマ・テンプルはこの先の丘の上にある。
このあたりにはとりわけラマ僧の姿が多い。僧衣の赤っぽい小豆色は良い色である。ラマ僧の僧衣の生地は寒冷な場所で過ごせるように厚めの物である。彼らはほとんど革靴を履いている。
ダライラマ寺院はそれほど大きい寺院ではない。鉄筋2階建てくらいに見える。その向かいに守衛のいるしっかりした門があるのでその先にダライラマがいらっしゃるのだろう。寺院の前は公園風になっていて、行事の時にはここに信者が列を作るのだろうと思われた。
寺院の見所は2階部分にあるふたつのお堂である。
西側にある部屋には、すばらしい壁画が描かれている。ダラムシャラーにダライラマたちが逃れてきたは1950年代である。したがって、この寺院自体新しい物だから、この壁画の作者も現代の人のはずであるが、その絵のすばらしさと色彩の豊かさは伝統の力を充分に感じさせる。左右の壁のマンダラはすっきりした感じで現代的でさえある。いつまでも見ていて飽きない。
中央の部屋が本堂らしい。部屋の向かって左側には閻魔大王のような神様と十一面観音のような仏様の大きな像が並んでまつられていた。これも新しく作られた感じの像である。全体に新しく、しかも信仰のしっかりと生きている感じがここのすばらしい所なのだろうと思う。
この寺院は山の斜面から南に張り出した尾根の上にあるために、周囲の眺望もすばらしい。
ダライラマ寺院からの帰りには丘の東側を巻いて戻る道を選んだ。この道は途中から人ひとりがどうにか通れる道になってマクロードガンジに抜けていた。この道の下の斜面にもチベッタンの僧侶達の宿舎が並んでいた。
電話をかけに電話屋さんに出かけた。店番は男の子のような女の子で、大人びて落ち着いていた。電話をしていたのは、がっしりしたからだつきの、30歳くらいの僧侶とその弟子らしい20代そこそこの女性の僧侶である。店番が云うには男の方はスワミだという。スワミとは優れた僧侶のことを指すのだろうか。たしかに、大きな子供のように天真爛漫で人柄の良さそうな男ではあった。女性の僧侶は頭を丸めていたが、とても美しい人だった。
夕方、日が沈んだ頃に、ニーザム・ムッディーン駅に到着した。薄暗い駅である。駅の外に出てオートリクシャを拾おうとしたがなかなか拾えない。一台つかまえたが値引き交渉をするとすぐに行ってしまった。なんだか妙である。それでもどうにか1台つかまえて、ニューデリー駅まで行き、メインバザールに宿を探した。
12月04日
メインバザールに泊まるのは初めてだが、確かに宿は多い。便利である。街には独特の活気があって、歩いていても楽しいし、興味が湧いてくる。
この辺りには牛が多い。ほとんど車が入ってこないために牛も住みやすいのだろう。それと野菜市場があって、売れ残りやかすの葉っぱなど、牛の餌になるモノがたくさんあるから、野放しの牛でも食べてゆけるのだろう。
ゴールデン・カフェはそんな野菜や果物の露天の並ぶほこりっぽい道ばたにあるレストランである。安いレストランだから、もちろんドアはない。風でほこりや排気ガスが流れ込んでくるテーブルで食べるのであるが、中華料理風の品が食べられるので日本人に人気のようである。
このレストランの掲示板には行方不明の日本人青年の尋ね人の張り紙がある。大学法学部の学生とある。どこにいるのか、生きているのか。インドで行方不明になったら、見つけるのは大変だろう。薬でやられてしまっているかもしれないし、病気で行きだおれてしまったかもしれない。インドは怖い場所ではないが、たとえば、東京と同じくらいには危険だと思う。
興味半分で薬に手を出して結局廃人同様になってしまい、それを助けようとした友人を傷つけた、なんて話をバラナシで聞いたことがある。
まずリカンフォームを済ませた。これで帰りの便は決まったわけだ。次にインフォメーションに行って、ダラムシャラーの気候とか、交通機関について情報をもらった。
ここでもタクシーを奨めるのには参った。ナンボかかると思っているのだろう。
それでも地域別のデータベースが用意されていて、コンピュータで打ち出したリストをくれた。私はデリーからバスで行くつもりだったが、バスは良くないから鉄道で行けとインフォメーションの人は言っていた。それで、この言葉には従うことにする。確かにバスで行くには長距離過ぎるように思えたからだ。
それから、ダラムシャラーに行くためのチケットを買いに駅に行った。午前11時くらいである。
駅の外国人専用の予約オフィスはすごく混んでいた。一応乗る予定の列車は決めていたのであるが、そこにいた日本人の話では2時間くらい並んでいるという。しかし、まあ、それくらいなら仕方がない。少し立っていれば座れるから、疲れることはない。外国人と云ってもパキスタンの人が多いのだろうか、インド人と区別のつかない人が多い。
なかにはぞっとするほどの美人もいる。雰囲気はインド人に近いだが、もっとアラビア風で目は憂いを含んだ深みのあるブルー。その目に吸い込まれてしまいそうになる。
カウンターで日本人がなにやらもめていた。あとで聞いてみると、両替の証明書を持ってこなかったので切符を買えなかったとのこと。彼らは、『地球の歩き方』の編集者だという。立派なカメラをむき出しで首からぶら下げているし、そう言われればそうかなと云う感じの人たちである。メンバーは3人くらいだった。「切符が買えなかったことによって予定がくるってしまったら、ここの責任にして悪く書いてしまう。」とか言いながら食事に行ったがそれっきり戻っては来なかった。
ダラムシャラーの最寄りの駅はパターンコート駅。鉄道の幹線にある大きな駅らしく、急行列車が数本走っている。
そして2時間近く並んで行きと帰りの切符を買ったのだが、ふと考えてみると午前0時25分発の列車のチケットを買うのに前の日の日付を指定してしまったことに気が付いた。気づいたから良いようなものの、こういった基本的なところでミスが出るというのは情けない。
仕方なく、キャンセルの用紙と予約の用紙に再び記入して、また1時間半並んでようやく切符を手に入れることができた。午後3時であった。
ダラムシャラーはだいぶん寒そうである。ゴールデンカフェで会った日本人は、雪でバスが行かないと聞いたとか言っているし、インフォメーションの人も寒いという話はしていた。私は薄いセーターしか持っていないから何か着るモノを買わなければいけないのだろうかと思うが、必要なら現地で買えばよいと思いなおして、結局衣類を買うのはやめにした。しかし、デリーでさえ朝晩寒いほどだから、北に400km、標高2000mの場所はかなり寒いだろうとは思った。
メインバザールには、変な服装をした人がたまに歩いている。サドゥーなのだろうが、寒い場所のためか、黄色の僧服などを着ていて、手に3ッ又の槍のようなモノを持っている。どうもシヴァの信奉者らしいが、仮装行列のようでもある。こんなスタイルの人たちが托鉢?して歩いている。
日が暮れる頃に駅に向かった。オールドデリー始発の列車に乗るのである。デリーの街も交通渋滞のためか一方通行になっているらしく、オートリクシャはずいぶん遠回りして走る。いったんコンノートプレイスに行きニューデリー駅の方に向かい、ヤムナー川の方に走り、渋滞の中を照明で彩られた広場のような所を通り抜け、ずいぶん走ってから駅に着いた。
駅前は、やはり薄暗くて混みあっていた。ホームに入っても座る場所があるかどうか分からないので、入り口の階段にインドの人たちと一緒に腰掛けて時間を潰す。入り口に金属探知器のゲートがあったり、警官が見張っていたりするが、駅員らしい人はいない。
そこでぼんやり座っていると、警官が棒を持って座っている人を追い払い始めた。私の座っているところまでは来なかったが、けっこう乱暴ではある。
寝台列車は9時過ぎに発車したが、スリーパークラスの車両に普通の2等の乗客が乗ってきて、3段ベットの上まで人でいっぱいになった。これにはまいったし、いったいどうなる事かと思う。
しかし一応決まりはあるらしく、ある駅を過ぎるとそう云った客はいなくなり、チケットを持った客だけになった。持っていない客は車掌が出入り口の通路まで追い出すのである。それでやっと寝台車らしくなった。
12月05日
朝、明るくなるにつれて外の景色が見えてくる。まるで日本の秋のような風景である。まだそれほど寒いと云った感じはない。
パターンコートについては全く情報を持っていないから、駅に着いてみないとその先ははっきりとは決まらない。狭軌の鉄道があるらしいが、バスもあるらしい。どちらでも良いと思う。まだ朝である。便はいくらでもあるように思っていたし、遅くても昼過ぎにはダラムシャラーに着くつもりでいた。
パターンコートからダラムシャラー方面に向かう狭軌の列車は、到着したのと同じホームの先端から発車していた。切符を買うのに走るほど乗り継ぎはスムーズだったが、混んでいて座れない。なんでこんなに混むのか分からない。乗客はインド人ばかりでチベッタンの顔は見えない。乗っている人々はインド人といっても肌の色の白い、目の青っぽい人が多く、南の地方ともデリーとも少し違った雰囲気である。
この狭軌の列車は8時40分発であったが、9時頃に動き出した。車両は確かに小さい。車幅は2mくらいにみえる。中央部分の左右にドアがある。
乗客がいっぱいでドアを閉めることができないほど混んでいる。
トイレも付いているが、使う人はほとんどいない。駅に止まったときに車両から降りて、線路脇で立ち小便する男の人が多い。
スピードはゆっくりである。早くても時速40kmくらいだろうか。列車は少しずつだが確実に勾配を登っている。
窓もドアも開け放たれているが、別に寒いわけでもない。線路脇には秋の花も咲いているし、南国風の木々も自生している。
しばらく行くと大きな湖があった。線路沿いの家の造りはデリーなどとはずいぶん違っていて、スレート葺きの家が多い。天然のスレートだから、当然屋根に傾斜をつけるわけで、遠目には、瓦葺きの家のように見える。
線路は単線で、1時間半くらいに一度、下りの列車とすれ違う。すれ違うときはこちらの上りの列車がいつも待つことになっているらしい。
駅に止まったときに車両から降りてみた。レールの間隔は80cmくらい、レール自体は当たり前だがしっかりした造りの本物である。また、この列車にも1等車のような車両が付いていた。ゆったり行くならそちらの方がよかったかもしれない。
線路は山沿いに蛇行していて、トンネルはほとんどない。
そして結局、カングラ・マンディールという名の駅まで4時間以上かかった。途中から座れたから良かったものの、予想外に時間がかかってしまったと思う。
カングラ・マンディールは小さな駅で、そこからさらに、ダラムシャラー行きのバスの出るバスステーションまでは2kmくらいある。このカングラマンディールというのはヒンドゥー教の寺院の名前で、そこに観光客が集まっているようであった。
この辺りまで来てもチベッタンの姿はほとんど見かけない。
カングラ・マンディールのバスステーションからバスに乗り、30分ほどでロワー・ダラムシャラーについた。ここはもう山の中腹である。ロワー・ダラムシャラーのバスステーションはなかなか立派で、多くの人で賑わっていた。ここまでくると幾らかチベッタンの人たちが見られるようになった。
亡命チベット政府のあるアッパー・ダラムシャラーへはさらに別のバスに乗って、また20分くらい登る。
検問を通り小さな教会を見ながら急坂を登りきった所がアッパー・ダラムシャラー。標高は1800m。ここも山の斜面の途中である。平坦な土地があるわけではなく、斜面につきだした尾根の上に小さな街ができていた。どことなく、奈良の吉野山の雰囲気に似ている。
例によってホテル探しからはじめる。最初にホテル・チベットに行ってみた。安い部屋でも1泊税込みで440Rs。ディスカウントは全く受け付けない。受付のおねえさんは、まるで日本人のような雰囲気のチベッタンの娘さんである。一応部屋を見せてもらったら、立派な部屋であった。しかし高いので、他をあたってみることにした。
2軒あたってみたけれど、あまりよい宿はなく、結局またホテル・チベットに戻った。このホテルの部屋の造りはかなり上等である。シャワー・トイレの造りも良いし、窓も広い。しかし、値段を考えれば二重丸のホテルである。ここのレストランは手頃な値段でチベット風のおいしい物が食べられる。
さて、どちらの道を行けばダライラマの住む場所へ行けるのかと散歩しているうちに夕暮れになってしまった。
このアッパーの街だけはさすがに亡命チベット政府の本拠地だけあってチベッタンの人が多い。
気温はそれほど低くなくて、日本で云えば秋の半ば過ぎ、紅葉前の気候である。
12月06日
シェラフだけかけて寝たら明け方寒かった。それで上から毛布をかけたらちょうど良くなった。
料金が安いのは、部屋の真上がレストランだからで、宵のうちは少しうるさかったが、真夜中から明け方にかけては本当に静かだった。
日が昇ってから屋上にでてみると、近くの緑の山の向こうにうっすらと雪をかぶった高い山が見えていた。
ゆっくりの朝食を食べてから、ダライラマ・テンプルの方に歩いて行ってみた。バス停のある小さな広場がこの街の中心で、そこから南に向かってのびる尾根の鞍部の上に、2本の道が家2軒ほどの間隔で平行して走っている。そのうちの右側の道を行くとダライラマ寺院に行ける。
ホテルから少し歩いた左手に、マニ車で周囲を囲んでいるラマ教寺院があって、チベッタンのおばさん達が参拝している。寺院の建物の中には大きなマニ車があって部屋の壁は仏画・仏像・灯明で飾られている。
通りを小豆色の僧服を着たラマ教の僧侶が2,3人で連れ立って、あるいはひとりで思い思いの方向に歩いて行く。その通りに面して土産物屋が並んでいる。
しばらく行くと道はピークを右に巻いて、人家が少なくなるが、ピークを過ぎるとまたひとかたまりの建物の集まった鞍部に出る。ダライラマ・テンプルはこの先の丘の上にある。
このあたりにはとりわけラマ僧の姿が多い。僧衣の赤っぽい小豆色は良い色である。ラマ僧の僧衣の生地は寒冷な場所で過ごせるように厚めの物である。彼らはほとんど革靴を履いている。
ダライラマ寺院はそれほど大きい寺院ではない。鉄筋2階建てくらいに見える。その向かいに守衛のいるしっかりした門があるのでその先にダライラマがいらっしゃるのだろう。寺院の前は公園風になっていて、行事の時にはここに信者が列を作るのだろうと思われた。
寺院の見所は2階部分にあるふたつのお堂である。
西側にある部屋には、すばらしい壁画が描かれている。ダラムシャラーにダライラマたちが逃れてきたは1950年代である。したがって、この寺院自体新しい物だから、この壁画の作者も現代の人のはずであるが、その絵のすばらしさと色彩の豊かさは伝統の力を充分に感じさせる。左右の壁のマンダラはすっきりした感じで現代的でさえある。いつまでも見ていて飽きない。
中央の部屋が本堂らしい。部屋の向かって左側には閻魔大王のような神様と十一面観音のような仏様の大きな像が並んでまつられていた。これも新しく作られた感じの像である。全体に新しく、しかも信仰のしっかりと生きている感じがここのすばらしい所なのだろうと思う。
この寺院は山の斜面から南に張り出した尾根の上にあるために、周囲の眺望もすばらしい。
ダライラマ寺院からの帰りには丘の東側を巻いて戻る道を選んだ。この道は途中から人ひとりがどうにか通れる道になってマクロードガンジに抜けていた。この道の下の斜面にもチベッタンの僧侶達の宿舎が並んでいた。
電話をかけに電話屋さんに出かけた。店番は男の子のような女の子で、大人びて落ち着いていた。電話をしていたのは、がっしりしたからだつきの、30歳くらいの僧侶とその弟子らしい20代そこそこの女性の僧侶である。店番が云うには男の方はスワミだという。スワミとは優れた僧侶のことを指すのだろうか。たしかに、大きな子供のように天真爛漫で人柄の良さそうな男ではあった。女性の僧侶は頭を丸めていたが、とても美しい人だった。