12月07日
たいした予定もなく、少し暖かくなった頃に朝食を取り、9時半過ぎに散歩に出かけた。TIPAのテント小屋にいってみようと思った。TIPAとはチベットの伝統芸能を保存し公演する組織らしい。
行ってみるとテント小屋ではなく、学校のような立派な建物が建っていた。想像していたよりははるかに立派な施設である。
あるいは、ここのグランドにテントを張るのかもしれない。
コーラスの練習が聞こえてくる。斜面の上の林の中の道を歩いてきたので、私が立っているのは建物より高い位置なのだが、歌の練習はその建物の屋上で行われていた。
数人が混声で歌っている。チベットの民謡のようであった。耳に懐かしい歌声である。
昔どこかで聞いたような感じがするのは、芸能山城組のレコードで似たような曲を聞いているからかもしれない。
しばらくそこに立ち止まって、山にこだまするような歌声を聞かせてもらった。
もう少し上まで登ってから、今度は、この道とほぼ並行して斜面の下の方を走っている道に降りて、その先にある寺院を見て、マクロードガンジに帰るつもりだったのだが・・・
後ろから、せっせと坂道を上ってくる若い男がいる。不審な男・・・しかし、どうも日本人のようである。声を掛けてみると、案の定日本人。
彼はこれから、片道4時間ほどの山に登ろうとしているという。しかし、その山の名前も定かではないという。同宿のカナダ人からこの道を行けばいいと聞いたのだという。ずいぶんいい加減な人である。
しかし、誘われて、その人と一緒に登る気になった私はもっといい加減。
その辺りの人に聞いてみると山の名前はTRIUNDというらしい。私の持っていたパンフレットによれば、標高2827m。確かに片道4時間と書いてある。しかし、標高差は1000m近い。時計はもう10時近くを指している。山に登るなら、もっと早く出なければならない。
それで、午後2時まで登ってみて、登り切らなくても下山するという事にして歩き始めた。案内板はないが、道にペンキで矢印が書いてあったりするし、途中までは人家があるので、道を聞きながら登って行く。登山道は民家の庭先に出たりするが、全体には良く整備されている。民家が終わってから少し登った鞍部にシヴァ神を祭った寺院があった。そこまで登っただけで息が上がってしまい、私ひとりなら止めているところだが、それもできない。
その寺院のところで道はふたつに分かれているが、そこで尾根の向こう側に下ってしまわずに、山の斜面を右に登って行くと、後はTRIUNDまで一本道である。1時間おきくらいに水を売る小屋があって、道はダラダラの登りである。佐々木君というその男は、もちろん私よりは歩くのが速いから、私は「先に行ってください。」と言う。それでも私一人で歩くのに比べれば、ずいぶん速く歩いた。
いったいどこまで登るのかという問題があったが、そのうちにめざす場所が見えてきた。目的のTRIUNDは、自分たちが今登っている沢の上に見える尾根にある山小屋であるらしい、そのあたりにはチベッタンの旗もひらめいている。道は深い谷の急斜面に付けられているのだが、岩がしっかりしているし、道幅も広くて安心感があった。岩石の種類はよく分からないが、白っぽく透明感があって長方形にかけるような種類のものが主体である。
最後の登りにさしかかるところで馬を3頭連れた男に会った。馬は小型である。荷を運んだ帰りらしい。歌を歌いながらゆっくり下っていった。最後の斜面は特に急で、標高も2800mと高いから息が切れた。
この辺りの空には大ワシが数羽舞っている。白いきれいな胸毛をした巨大なワシである。そのワシがかなり低いところまで降りてくるので怖さを感じる。
そしてやっとの事で,TRIUNDの小屋にたどり着いた。頂上ではなく尾根の上である。午後2時を少し過ぎていた。
この尾根の上は風が強いためか立木がなく、草原になっていて見晴らしが非常によい。目の前にひろがる山はヒマラヤらしい岩山である。高さは4000m以上あるのだろうか。
TRIUNDという名はこの辺一体を指す名前らしいが、トレッキングでTRIUNDと云えばこの山小屋の所らしい。山小屋はしかし閉まっていた。
私たち2人の他には、私たち程度の軽装の男女2人連れと、ちゃんとしたトレッキングの装備をした4人のグループがいた。
歩くのをやめるとすぐに冷えてきたし、帰りの行程も3時間はかかりそうなので急いで下山した。それでも、マクロードガンジに着いたのは、陽の沈んだ午後5時だった。
12月08日
もう一度ダライラマ寺院に行ってみた。今日は日曜日でインド人の観光客が目立つ。
昼頃にアッパー・ダラムシャラーからバスでロアー・ダラムシャラーのバス停に下った。下る途中で道端の修理工場の溶接機を借りて、乗客を乗せたままバスを修理するのには参った。下り坂でトラブッたらどうなる事かと思う。
パターンコート行きのバスが出るまでにはだいぶん時間があるので、荷物をクロークに預けて街を歩いてみた。ロアー・ダラムシャラーと云ってもまだ尾根の途中であるが、ここまで降りてくるとチベッタンは少なくなってしまう。ヒマラヤの山々はこの辺りからの方がよく見えるようだ。
バスの発車時刻は3時45分のはずだったが3時過ぎにバス停に戻ると、すぐにパターンコート行きが1台発車した。日曜日なので臨時便が出ているらしかった。
バスを捜す場合、字が読めないから、車掌らしき人を捜しては、パターンコート行きのバスはどれかと聞いて歩くのだが、みんな親切に教えてくれる。
バスは、ひとつひとつの停留所に寄って乗客を乗せたり降ろしたりして、ずっと満員状態である。その混雑の中を車掌が行ったり来たりして料金を集めている。インドの車掌は私の知る限りでは皆男性であった。
バスは4時間かけてパターンコートに着いた。しかし、駅前ではなく、駅からだいぶ離れた夜の薄暗い街角に降ろされた。
仕方なく、暗い夜道を道を尋ねながら歩いてゆくと、駅のホームのはずれの線路の反対側にたどり着いた。他の人のまねをして、そこから線路を渡ってホームに上がる。
ホームではちょうどデリー行きの列車が出発するところだった。バスの中で、時間を気にしていた人たちはこの列車に乗る予定の人たちだったらしい。
しかし、私の乗る列車は4時間以上後である。なぜそんな列車にしたかと云えば、早い列車に乗るのは忙しいし、早朝のデリーに着いても時間を持て余すだけなので、10時頃ニューデリーに着く列車にしたのだ。
従って、この寒い駅で4時間待たなければならない。とりあえず駅のレストランで食事。ここのベジタブルカリーはおいしかった。インドで食べた中では一番おいしかったと思う。
それから、待合室のベンチに座って寒さよけにシェラフをかぶって時間を潰す。
待合室には軍人さんが多い。
軍人さんはふたつのタイプに分けられる。ひとつのタイプは、これから訓練にでも出かけようと云う予備役の軍人らしい人。彼らの服装は半分軍服半分私服と云った感じで、広げると布団になる大きな荷物を持っている。この人達は列車を待っているらしく、思い思いに布団を広げて寝ているから、明け方の列車にでも乗るのだろう。
もうひとつのタイプは、銃を持った軍人さん。頭に赤青ツートンのターバンを巻いている人が目立つ。銃は小型の自動小銃だったりライフルだったりする。この人達は、この駅の警備をしているのか、見回りらしい事をしている。現役の軍人の精悍さがある。荷物が盗まれないように見回りなどしながら、私に声をかけてくる。
「これはおまえの荷物か。おまえは日本人か。日本は金持ちな国だ。おまえの仕事はなんだ。」
不審に思われて調べられた日には、言葉の壁があるからたいへんだと思う。にこやかに、おだやかに、僧侶のように対応するのがよい。
インドの駅は夏暑くないように、風通し良くできている。シェラフを頭からスッポリかぶっていても少し寒いくらいだ。どの人も何かしら防寒用に毛布などを持っていて、それにくるまっていた。そのうちに、駅に寝泊まりしているらしい少年が床に段ボールを敷いて、売店に預けてあった毛布を出すとくるっとくるまって寝てしまった。
私の乗る列車は、時刻通りにホームに入ってきた。しかし、その混みようは半端でない。移動の兵隊さんが乗っているのである。入り口にも通路にもベットの回りにも荷物が積まれて、私のベットにも誰かが寝ている。それでもなんとかベットをあけてもらって寝ることはできた。
軍人さん達は北の国境沿いから来たらしく、しっかりした防寒支度をしていた。インド人ではないように見える人もいる。国境が定まっていないというカシミールあたりに駐屯していたのだろうか。
たいした予定もなく、少し暖かくなった頃に朝食を取り、9時半過ぎに散歩に出かけた。TIPAのテント小屋にいってみようと思った。TIPAとはチベットの伝統芸能を保存し公演する組織らしい。
行ってみるとテント小屋ではなく、学校のような立派な建物が建っていた。想像していたよりははるかに立派な施設である。
あるいは、ここのグランドにテントを張るのかもしれない。
コーラスの練習が聞こえてくる。斜面の上の林の中の道を歩いてきたので、私が立っているのは建物より高い位置なのだが、歌の練習はその建物の屋上で行われていた。
数人が混声で歌っている。チベットの民謡のようであった。耳に懐かしい歌声である。
昔どこかで聞いたような感じがするのは、芸能山城組のレコードで似たような曲を聞いているからかもしれない。
しばらくそこに立ち止まって、山にこだまするような歌声を聞かせてもらった。
もう少し上まで登ってから、今度は、この道とほぼ並行して斜面の下の方を走っている道に降りて、その先にある寺院を見て、マクロードガンジに帰るつもりだったのだが・・・
後ろから、せっせと坂道を上ってくる若い男がいる。不審な男・・・しかし、どうも日本人のようである。声を掛けてみると、案の定日本人。
彼はこれから、片道4時間ほどの山に登ろうとしているという。しかし、その山の名前も定かではないという。同宿のカナダ人からこの道を行けばいいと聞いたのだという。ずいぶんいい加減な人である。
しかし、誘われて、その人と一緒に登る気になった私はもっといい加減。
その辺りの人に聞いてみると山の名前はTRIUNDというらしい。私の持っていたパンフレットによれば、標高2827m。確かに片道4時間と書いてある。しかし、標高差は1000m近い。時計はもう10時近くを指している。山に登るなら、もっと早く出なければならない。
それで、午後2時まで登ってみて、登り切らなくても下山するという事にして歩き始めた。案内板はないが、道にペンキで矢印が書いてあったりするし、途中までは人家があるので、道を聞きながら登って行く。登山道は民家の庭先に出たりするが、全体には良く整備されている。民家が終わってから少し登った鞍部にシヴァ神を祭った寺院があった。そこまで登っただけで息が上がってしまい、私ひとりなら止めているところだが、それもできない。
その寺院のところで道はふたつに分かれているが、そこで尾根の向こう側に下ってしまわずに、山の斜面を右に登って行くと、後はTRIUNDまで一本道である。1時間おきくらいに水を売る小屋があって、道はダラダラの登りである。佐々木君というその男は、もちろん私よりは歩くのが速いから、私は「先に行ってください。」と言う。それでも私一人で歩くのに比べれば、ずいぶん速く歩いた。
いったいどこまで登るのかという問題があったが、そのうちにめざす場所が見えてきた。目的のTRIUNDは、自分たちが今登っている沢の上に見える尾根にある山小屋であるらしい、そのあたりにはチベッタンの旗もひらめいている。道は深い谷の急斜面に付けられているのだが、岩がしっかりしているし、道幅も広くて安心感があった。岩石の種類はよく分からないが、白っぽく透明感があって長方形にかけるような種類のものが主体である。
最後の登りにさしかかるところで馬を3頭連れた男に会った。馬は小型である。荷を運んだ帰りらしい。歌を歌いながらゆっくり下っていった。最後の斜面は特に急で、標高も2800mと高いから息が切れた。
この辺りの空には大ワシが数羽舞っている。白いきれいな胸毛をした巨大なワシである。そのワシがかなり低いところまで降りてくるので怖さを感じる。
そしてやっとの事で,TRIUNDの小屋にたどり着いた。頂上ではなく尾根の上である。午後2時を少し過ぎていた。
この尾根の上は風が強いためか立木がなく、草原になっていて見晴らしが非常によい。目の前にひろがる山はヒマラヤらしい岩山である。高さは4000m以上あるのだろうか。
TRIUNDという名はこの辺一体を指す名前らしいが、トレッキングでTRIUNDと云えばこの山小屋の所らしい。山小屋はしかし閉まっていた。
私たち2人の他には、私たち程度の軽装の男女2人連れと、ちゃんとしたトレッキングの装備をした4人のグループがいた。
歩くのをやめるとすぐに冷えてきたし、帰りの行程も3時間はかかりそうなので急いで下山した。それでも、マクロードガンジに着いたのは、陽の沈んだ午後5時だった。
12月08日
もう一度ダライラマ寺院に行ってみた。今日は日曜日でインド人の観光客が目立つ。
昼頃にアッパー・ダラムシャラーからバスでロアー・ダラムシャラーのバス停に下った。下る途中で道端の修理工場の溶接機を借りて、乗客を乗せたままバスを修理するのには参った。下り坂でトラブッたらどうなる事かと思う。
パターンコート行きのバスが出るまでにはだいぶん時間があるので、荷物をクロークに預けて街を歩いてみた。ロアー・ダラムシャラーと云ってもまだ尾根の途中であるが、ここまで降りてくるとチベッタンは少なくなってしまう。ヒマラヤの山々はこの辺りからの方がよく見えるようだ。
バスの発車時刻は3時45分のはずだったが3時過ぎにバス停に戻ると、すぐにパターンコート行きが1台発車した。日曜日なので臨時便が出ているらしかった。
バスを捜す場合、字が読めないから、車掌らしき人を捜しては、パターンコート行きのバスはどれかと聞いて歩くのだが、みんな親切に教えてくれる。
バスは、ひとつひとつの停留所に寄って乗客を乗せたり降ろしたりして、ずっと満員状態である。その混雑の中を車掌が行ったり来たりして料金を集めている。インドの車掌は私の知る限りでは皆男性であった。
バスは4時間かけてパターンコートに着いた。しかし、駅前ではなく、駅からだいぶ離れた夜の薄暗い街角に降ろされた。
仕方なく、暗い夜道を道を尋ねながら歩いてゆくと、駅のホームのはずれの線路の反対側にたどり着いた。他の人のまねをして、そこから線路を渡ってホームに上がる。
ホームではちょうどデリー行きの列車が出発するところだった。バスの中で、時間を気にしていた人たちはこの列車に乗る予定の人たちだったらしい。
しかし、私の乗る列車は4時間以上後である。なぜそんな列車にしたかと云えば、早い列車に乗るのは忙しいし、早朝のデリーに着いても時間を持て余すだけなので、10時頃ニューデリーに着く列車にしたのだ。
従って、この寒い駅で4時間待たなければならない。とりあえず駅のレストランで食事。ここのベジタブルカリーはおいしかった。インドで食べた中では一番おいしかったと思う。
それから、待合室のベンチに座って寒さよけにシェラフをかぶって時間を潰す。
待合室には軍人さんが多い。
軍人さんはふたつのタイプに分けられる。ひとつのタイプは、これから訓練にでも出かけようと云う予備役の軍人らしい人。彼らの服装は半分軍服半分私服と云った感じで、広げると布団になる大きな荷物を持っている。この人達は列車を待っているらしく、思い思いに布団を広げて寝ているから、明け方の列車にでも乗るのだろう。
もうひとつのタイプは、銃を持った軍人さん。頭に赤青ツートンのターバンを巻いている人が目立つ。銃は小型の自動小銃だったりライフルだったりする。この人達は、この駅の警備をしているのか、見回りらしい事をしている。現役の軍人の精悍さがある。荷物が盗まれないように見回りなどしながら、私に声をかけてくる。
「これはおまえの荷物か。おまえは日本人か。日本は金持ちな国だ。おまえの仕事はなんだ。」
不審に思われて調べられた日には、言葉の壁があるからたいへんだと思う。にこやかに、おだやかに、僧侶のように対応するのがよい。
インドの駅は夏暑くないように、風通し良くできている。シェラフを頭からスッポリかぶっていても少し寒いくらいだ。どの人も何かしら防寒用に毛布などを持っていて、それにくるまっていた。そのうちに、駅に寝泊まりしているらしい少年が床に段ボールを敷いて、売店に預けてあった毛布を出すとくるっとくるまって寝てしまった。
私の乗る列車は、時刻通りにホームに入ってきた。しかし、その混みようは半端でない。移動の兵隊さんが乗っているのである。入り口にも通路にもベットの回りにも荷物が積まれて、私のベットにも誰かが寝ている。それでもなんとかベットをあけてもらって寝ることはできた。
軍人さん達は北の国境沿いから来たらしく、しっかりした防寒支度をしていた。インド人ではないように見える人もいる。国境が定まっていないというカシミールあたりに駐屯していたのだろうか。