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釧路市 石川啄木資料室 港文館(こうぶんかん)

2024年07月15日 10時27分59秒 | 北海道

石川啄木資料室。港文館(こうぶんかん)。釧路市大町2丁目。

2022年6月13日(月)

港文館(こうぶんかん)は、歌人石川啄木釧路滞在中に新聞記者として勤めた旧釧路新聞社屋を復元した建物で、港湾休憩所および歌人石川啄木の資料を展示する文学館である。釧路川を挟んでフィッシャマンズワーフMOOの対岸に建っている。

港文館の建物1908年(明治41年)に竣工し1965年(昭和40年)に解体された旧釧路新聞社(現北海道新聞社)の煉瓦造りの社屋を1993年(平成5年)に大町地区港湾休憩所として復元したものである。

明治41年竣工の年に石川啄木が釧路新聞社の記者として勤めていたゆかりから、当時応接室と編集室があった館の2階に「啄木資料室」が設けられ釧路新聞社提供の関連資料が展示されている。

新聞社屋時代、事務室、宿直室、工場があった1階は喫茶室と売店が設けられ、玄関外の脇には石川啄木の銅像が建立された。

「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしく町にあゆみ入りにき」

啄木が釧路の地に足を踏み入れたのは明治41(1908)年1月21日の午後9時30分。旭川から釧路間が開通したわずか4か月後に啄木は終着駅の釧路に降り立った。終着駅という寂しい響きが少なからずあったことであろう。また、当日の最高気温は-9.2度。最低気温は-24.4度と極めて寒い日であった。

さらに、降り立った駅周辺はまだまだ人家も少なく、当時の中心は幣舞橋から南側のエリアであった。これらの要素が複合されて、「さびしき」思いを強くしたものと思われる。

石川啄木(1886年(明治19年)~1912年(明治45年))と北海道。

啄木は1906年(明治39年)4月から母校の渋民尋常小学校の代用教員となったが、3月5日父の一禎が、住職再任を断念して家出したこともあり、故郷岩手県渋民村での生活に見切りを付けて函館への移住を決意した。1907年4月1日に小学校に辞表を出し、4月21日に免職された。函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)へ寄稿して知遇を得ており、苜蓿社の側でも、詩人として名声のある啄木が来ることを歓迎したからでもある。

5月5日に函館に到着し、5月11日から5月末日まで、苜蓿社同人の世話により函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる。6月、苜蓿社同人の口利きで、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となった。7月7日に妻子を呼び寄せたのを機に下宿を出て新居に移る。8月には代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者となるとともに、苜蓿社の宮崎郁雨と交友を持つ。しかし、8月25日の函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失する。

苜蓿社同人が職を探し、札幌の北門新報校正係に採用が決まり、9月16日から勤務した。その矢先、新たに創刊される小樽日報記者への誘いを受けて、到着から2週間に満たない9月27日に小樽に移った。小樽には啄木に先んじて妻子が次姉宅に移っており、再び一家が揃った。まもなく啄木と妻子は借家に転居している。小樽日報では同僚に野口雨情がおり、ともに三面を受け持った雨情には好感を持ち、親交を結ぶ。

啄木は営業成績が上がらない小樽日報の将来を疑問視し、札幌に新しい新聞ができそうだとの誘いを受けて札幌に通ったことが、社内で紛争を生み、暴力をふるわれて12月16日に退社するが、札幌の新聞はできる気配がなかった

1908年(明治41年)1月小樽日報編集長が北海道議会議員で小樽日報社長兼釧路新聞(現在の北海道新聞社)社長である白石義郎に斡旋を依頼し、啄木の才能を買っていた白石の計らいで釧路新聞への就職が決まる。家族を小樽に残して1月19日に釧路に向け出発した。

1908年1月21日釧路に到着すると、事実上の釧路新聞編集長として紙面を任され、筆を振るって読者を増やした。取材のために花柳界に出入りして芸妓の小奴と親交を結んだ

啄木の釧路での生活は借金によって支えられていた。啄木の釧路新聞からの給料25円は決して低いものではなかった。当時の官立大学の初任給は30円、私立大の初任給は25円程度であった。

啄木は、十分な所得を得ながらも、料亭などへの支払いに窮しており、返済した記録は残されておらず、借金及び未払金は全て踏み倒したものと言われている。

しかし、これらは全てが遊興のために費やされたわけではなく、新聞取材、他社への政治工作等を目的としたものが多かった。

啄木は、中央文壇から遠く離れた釧路で記者生活を続けることに焦燥を募らせ、釧路を離れて創作生活に向かうことを決意する。3月20日から病気と称して欠勤し、28日に社長の白石から病気が治らないのかという電報を受けて釧路を去ると決める4月5日に釧路を後にして海路函館に向かった、啄木は4月24日、単身横浜行きの船で旅立ち、約1年間の北海道生活に別れを告げた。

小奴(渡辺ジン)明治23(1890)年3月7日、函館で生誕。尋常小学校2年生まで函館で渡辺庄六、ヨリの長女として生活を共にするが、翌年の9歳のときに十勝大津の坪ツルの養女となる。

その後、帯広の函館屋という置屋に預けられ、高等科4年までの8年間上等教育を受ける。明治39年2月、釧路で再婚した実母を頼って釧路へ。翌明治40年から丸長料理店で「才三」という名でデビュー。その後、厚岸、函館と移り住んだ後に、釧路に戻る船の中でしゃも寅の女将と知り合い、料亭しゃも寅のお抱え芸者となった。17歳のときである。

小奴は「色白で背もすらりとした美人で、芸も上手で気立ても良かった」ことから釧路の芸界ではすぐに人気者となった。啄木が小奴と出会ったのは18歳のとき。啄木と小奴は相思相愛の関係にあり、お互いの家を訪問するも、二人だけで会ったことは啄木が釧路を離れる前の日だけであったとされている。

啄木が釧路を離れた後、小奴(19歳)は大阪炭山鉱業事務所の逸見豊之輔(27歳)に囲われ、芸者を辞めることとなる。その年の12月、逸見と小奴が東京へ行った際、小奴は啄木と密会している。

逸見と小奴の間には明治43年、長女貞子を授かったが、逸見の事業が思わしくなくなった大正2年に離婚している。昭和37年まで釧路で過ごしていたが、京都、富山、東京足立区と転々とした後、最後はと東京都南多摩郡多磨町の老人ホームで老衰のため没。享年76歳であった。

林芙美子と。

笠置しづ子、服部良一、淡谷のり子、渡辺はま子たちと

 

啄木の離釧理由・・・。

■梅川ミサホ、小菅まさえとの関係。

 女性としても興味をもっていなかった梅川ミサホ、小菅まさえから言い寄られてきたこと。深夜の訪問によって、その翌日2月23日(月)に臨時の休みをとることとなる。休みを会社に伝えた時間が午後1時ということもあり、会社からも批判が出た。

■喜望楼女将による小奴との離間。

 啄木が最も気になっていたのが小奴。「紅筆だより」でも小奴は12回も登場している。啄木は、小奴のいるしゃも寅に頻繁に通うようになり、喜望楼にあまり顔を出さなくなったこともあり、喜望楼の女将が啄木と小奴離間を行った。啄木にとっては実に不愉快なことであった。

■北東新報社への画策とそれから生じた人間関係。

 釧路新聞と覇権を争っていた北東新報社を啄木の一人判断で取り潰しのために画策を図った。社長などが不在時の画策が行われた(北東新報社の職員を勧誘して辞めさせ、その影響もあり廃刊になる)。しかし、釧路新聞の首脳陣が望んでいたことでなかったことから、次第に経営陣と確執が生じる。時を同じくして2/23の会社を休んだことが怠業として社長に報告され、出張中の社長から「ビョウキナヲセヌカヘシライシ(不平病は治らないのか。返事を待ちます)」の電報を受け取り、退社を決定づけたとされる。

上記のほか、中央文壇への情景、寒冷な地方生活への嫌悪感(東京病)などが因となり果となって離道を決心させたものと思われる。

 

 

「小奴といひし女の やはらかき 耳たぶなども忘れがたかり」

野口雨情(1882年~1945年)。詩人、童謡・民謡作詞家。「シャボン玉」「証城寺の狸囃子」「兎のダンス」「青い眼の人形」「赤い靴」など。

 

石川啄木と小奴 野口雨情 初出「週刊朝日」1929(昭和4)年12月8日

 

 石川啄木がなくなつてからいまだ二十年かそこらにしかならないのに、石川の伝記が往々誤り伝へられてゐるのは石川のためにも喜ばしいことではない、いはんや石川が存生中の知人は今なほ沢山あるにも拘はらず、その伝記がたまたま誤り伝へられてゐるのを考へると、百年とか二百年とかさきの人々の伝記なぞは随分信をおけない杜撰なものであるとも思へば思はれます。ですから一片の記録によつてその人の一生を速断するといふことは、考へてみれば早計なことではないでせうか。

 私の思ふには石川が最後に上京して朝日新聞在社時代の前後や、晩年の生活環境については石川の恩人であつた金田一京助氏が一番正確に知つてゐるはずで、同氏によつてその時代のことを書かれたものが、正確なものだと考へられるが、北海道時代、ことに釧路時代の石川のことについては全く知る人が少いやうに思ふのでそれをここで述べてみよう。

 

 石川の歌集を繙ひもとく人は、その作品の中に小奴といふ女性が歌はれてゐることを気づくであらう。

 小奴といふのは釧路の芸者で、石川とは相思の仲であつたともいへよう。私は小奴に逢つたのは石川が釧路を去つて約一年後であつた。その動機といふのは、大正天皇が皇太子のころ北海道へ行啓されたことがあつた。その時私は、東京有楽社のグラフイツクを代表して御一行に扈従して函館から、札幌、小樽、旭川、帯広と順々に釧路へ行つた。(中略)

 そこで我等扈従記者の一行が県氏の案内で釧路へ着くと、釧路第一の料理亭、○万楼で土地の官民の有志が我我のために歓迎会を開いてくれた。私も勿論その席に出席して招待を受けたのであつた。

 時は丁度灯しごろ、会場は○万楼の階上の大広間で支庁長始め、十数名の官民有志が出席して、釧路一流の芸妓も十数名酒間を斡旋した。その時私がふと思ひだしたのは、嘗て石川から聞いてゐた芸者小奴のことであつた。私はこの席に小奴がゐるかどうかを女中に尋ねてみると、女中のいふには

『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』

 見ると小奴は今支庁長の前で、徳利を上げて酌をしてゐるところである。齢としは二十二、三位、丸顔で色の浅黒い、あまり背の高くない、どつちかといへば豊艶な男好きのする女であつた。その中に小奴は順々に酌をしながら私の前に来た。そこで私は

『小奴とは君かい。』

と聞いてみた。すると

『ええ、わたしですが何故ですか。』

と不思議さうに私の顔をみる、私は

『君は石川啄木君を知つてゐるだらう。』

といふと小奴は

『石川さん?』と小声に云つて、ぽつと頻を染めながら伏目勝ちになつて

『どうしてそんなことをおききなさるのですか。』

『いいや、君のことは石川君からよく聞いてゐたものだから……』

『あら、あなたは東京のお方でせう、それにどうして石川さんを知つてらつしやるのですか。』

『私は、今は東京にゐるが一、二年前までは小樽や札幌にゐたからそんなことはよく知つてゐるよ。』

 

 実は私は札幌で石川を始めて知つて、それから小樽の小樽日報へ一緒に入社したのであつた。小奴は

『あなたのお名前は何とおつしやいますか。』

と、不安さうな瞳をみはつて尋ねるのであつた。

『私は野口といつて石川君とは札幌からの懇意だもの。』

『まあ、あなたが野口さんでしたか、それでは石川さんから始終あなたのお噂を聞いてゐました。それにしても今石川さんは何処どこにゐらつしやるのでせうか。』

 小奴は石川が釧路を去つてからの後は石川のくはしい消息は全く知らないらしかつた。

『いまは東京にゐるが、君はそれを知らないのか。』

『ええ、東京へ行つてゐるといふことはうすうす聞いてゐましたが、東京の何処にゐらつしやるのかその後音信がないので存じません。』といふ。

(中略)

小奴は私に石川のことについて次のやうなことを話して聞かせた。

『石川さんが釧路へ来て間もなく、社(釧路新報社のこと)の遠藤決水さん達と一緒に逢つたのが、初めてで、それから始終石川さんとお逢ひしてゐましたが、初めの中は料理屋の勘定なども無理な工夫をして支払つてゐましたし、私も出来るだけお金の工面もしましたが、たうとう行きづまつて、はてはお座敦に行けばお客達から『石川石川』といつてからかはれお座敷の数もだんだん減つてどうすることも出来ないやうになつてしまつたのです。それに石川さんにはお母さんも奥さんも子供さんまであつて、お金に困りつつ小樽にゐるといふことを遠藤決水さんから聞かせられて、私は第一奥さんにすまないと思ひましたのでそれからは、心にもない不実な仕打をするやうになりました。それとしらない石川さんはその後私を大変恨むやうになりました。そこへまた社の社長(釧路新報の社長白石義郎氏のこと)さんも石川さんに意見をするやうになつたので、それやこれやで石川さんは釧路をたつ気になつたのでせう。

 けれどもたつといつたとこで、一文の金の融通さへも出来ないまでに行きづまつてしまつた石川さんは、丁度その春の解氷期をまつて、岩手県の宮古浜へ材木を積んで行く帆前船に乗つて、大きな声ではいはれませんがこつそりと夜だちしてしまつたのです。

 さあ石川さんが夜だちをしたとなると勘定の滞つてゐる料理ややそばやが皆私の方へ催促をするので私はよくよく困つてしまひました。仕方がないから社の社長の白石さんを尋ねて何とかして下さいませんかと頼みましたが、白石さんはぷんぷん怒つてゐて、てんで取り合つてくれませんでした。尤も石川さんが夜だちをする二日ほど前に

『「これから郷里の岩手へ行つて金をこしらへて来る。」といつてゐましたが、そんなことはあてにならないとは思つてゐましたが、さうでもしてくれればいいがとせめてもの心頼みにもしてゐたのです。けれどもここをたつてからは一度の音信もありませんから、釧路のことも、私のことも、もう忘れてしまつたのだと思はれます。』

と話して小奴は泪をさへうかべてゐました。私は小奴が気の毒になつたので、

『私が東京へ帰つたら、石川に早速話して石川を慕つてゐる君の心をよく伝へるから。』と慰めの言葉を残して旅館に帰つて来た。

(中略)

その後大正十年の春、私が奈良市へ講演に行つて四季亭へ泊つた時、どうした話のはずみだつたか四季亭の女中が、あなたを知つてゐる坂本さんといふ女の方が京都にをりますよと私にいふのである。その女中は何でも京都の生れであつたやうに思はれた。私は坂本といふ婦人はいくら考へても思ひ出せなかつたので女中にだんだん聞いてみると、その坂本といふ婦人こそ、釧路の芸者小奴であつた。小奴の本姓は坂本といふのであつた。

 その女中の話しによると、小奴の坂本はその当時京都のある呉服屋の支配人の妻君になつて京都に住んでゐたのであつた。釧路と京都とはどんな事情で小奴が今京都にゐるかは知らないが、不思議な感がしてならなかつた。

(中略)

石川は人も知る如く、その一生は貧苦と戦つて来て、ちよつとの落付いた心もなく一生を終つてしまつたが、私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であつたやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽してくれたからである。かうした石川の半面を私が忌憚なく発表することは、石川の人と作品を傷つける如く思ふ人があるかも知れないが私は決してさうとは思はない。

 妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子までも忘れて、流れの女と恋をすることの出来たゆとりのある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事の出来る焔が絶えず心の底に燃えてゐたから、それがその作品に現れてきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死灰の如くなつて、今日世人から尊重されるやうな作品は生れて来なかつたかも知れない。

 いはば石川の釧路時代は、石川の一生中一番興味ある時代で、そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感ずるのである。

 

釧路市街地の見学を終え、釧路湿原東部の見学に向かった。

釧路市 毛綱毅曠(もづなきこう)の建築 反住器 釧路市立幣舞中学校



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