山形市郷土館(重文・旧済生館本館)。山形市霞城町。
2024年9月8日(日)。
山形県立博物館の見学を終え、南に隣接している山形市郷土館に向かった。1980年代初めに見学しているので2回目の見学。現在は入場無料になっているので、入場者は途切れない。
山形市郷土館として活用されている旧済生館本館は、病院として使われていた明治の擬洋風建築である。
済生館は、木造の擬洋風建築として明治初期の代表的な建物であり、1878年(明治11)に山形県立病院として建設された。当時の山形県令三島通庸の「山形の近代化を図る」という構想のもとに計画された。旧済生館本館の主屋は、木造三重四階、初重桟瓦葺他亜鉛板葺、建築面積110.9㎡。回廊は、一重桟瓦葺、建築面積429.3㎡。設計は筒井明俊、建設は原口祐之を棟梁とし、山形の宮大工と300人の職人たちの手によって僅か7ヶ月で完成した。
1878年7月、山形を訪れたイギリス人のイザベラ・バードは、完成間近のこの建物を見て「大きな二階建の病院は、丸屋根があって、150人の患者を収容する予定で、やがて医学校になることになっているが、ほとんど完成している。非常に立派な設備で換気もよい」と評している。
「済生館」の名前は当時の太政大臣・三条実美の命名による。東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ、診療の他に医学校が併設され、オーストリア人医師ローレツを金沢医学校から招聘した。経営の問題から1888年(明治21)には民営となり、その後1904年(明治37)4月には山形市立病院済生館となった。
主屋の外観は3層だが内部は4階建てと複雑な構造になっている。ドーム型の緑色の屋根が特徴で、当時の人々は、この建物を親しみをこめて「三層楼」と名づけた。
中庭を囲んで病室を円形に配置し、正面の塔屋は三層構造の独特の形態になっている。中庭を囲む十四角形の回廊に沿って八室の病室がある。ドーナツ型の回廊という独創的な建築形態は、横浜にあるイギリス海軍病院を参考にしたとされる。
1階の正面玄関は八角形のポーチがある。2階は正十六角形の大広間、さらに螺旋階段で3階の八角形の小部屋に通じ、それぞれの階にベランダを配した構造になっている。
内部構造は大変ユニークで、2階は直径10mほどの16角形のホールで中央に柱は1本も立っていないのにもかかわらず、ホール上部に中3階・4階がのっている。これは当時日本に入ってきたばかりのトラス構造を利用して支えられている。さらに、16角形から8角形へ楼の形を変えるのに際して使われているのは多宝塔上層部をくみ上げる工法で、日本古来の建築にも熟達した人物の指揮があったことがうかがえる。
2階に登る階段入口。
階段踊り場。色とりどりのガラスを組み合わせて作られたアーチ型のガラス。
ケヤキで作られた螺旋階段の側面には、唐草模様の装飾が彫られている。
ドアの蝶番や屋根の亜鉛板などはドイツから輸入された。
1961年、山形市は老朽化した済生館の木造建築物を撤去し、鉄筋コンクリート造りの近代的な医療施設とする建設計画を定めた。1963年から病棟の改築工事が進捗すると本館の木造三層楼の存廃問題が持ち上がった。この建物は明治初期の木造高層洋風建築物として、市の文化の象徴ともされており、全国的に見ても唯一の明治初年の病院遺構として貴重な存在とされていた。1965年に市長の諮問機関は本館を廃棄と決定答申した。これに対し、市民や市内文化団体が反発する声を上げ、市長が解体の一時休止を命じ、文部省から係官を招き、調査をした所、明治初期の擬洋風建築の最高傑作と評価され、1966年に重要文化財に指定された。
現状保存は困難であるため、文化庁の指導のもと1967年に解体され、1969年に霞城公園内の山形財務部官舎跡に、移築復元された。
1971年「山形市郷土館」として1階と2階の一部公開されることになった。2009年から入館料の徴収は撤廃された。