出羽三山神社。山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山。
2024年9月11日(水)。
鶴岡市立加茂水族館を見学後、湯の浜温泉下区共同浴場で入浴し、羽黒山へ向かった。
事前情報によると国宝・羽黒山五重塔は修理中のため見学できないということだったが、実際には見学することができた。羽黒山五重塔は1990年代後半に、日本百名山の月山登頂に合わせて湯殿山とともに見学しているので再訪となった。そのときは、羽黒山頂上を訪れなかったので、今回は訪れることにした。山頂を見学後は、麓に下りて「いでは文化記念館」と羽黒山五重塔を見学した。「出羽三山歴史博物館」は内部撮影禁止であったが、「いでは文化記念館」撮影可能であった。
羽黒山有料道路で、羽黒山山頂の出羽神社(出羽三山神社)近くの駐車場に着いた。障害者割引で、往復200円。
羽黒山は、山形県鶴岡市にある標高414mの山で、出羽三山の主峰である月山の北西山麓に位置する。修験道を中心とした山岳信仰の山として知られる。
出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山の総称で江戸時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であった。
明治以降神山となり、羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は大山祇命、大国主命、少彦名命の三神を祀るが、開山以来、羽黒派古修験道は継承され、出羽三山に寄せる信仰は今も変わらない。
出羽三山は第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が593年に開山したといわれる。権力争いの中で、蜂子皇子の身に父と同様、蘇我馬子の毒手が及ぶのを恐れた聖徳太子が宮中を脱出することを勧めた。
その勧めと協力により、密かに宮廷を遁れた皇子は各地を遍歴したのち、593年、出羽国由良の浜で神楽を舞う8人の乙女に出会う。
その乙女に促され3本足の八咫烏(やたがらす)に導かれて、老樹が鬱蒼と茂った羽黒の阿久谷(あこや)に辿り着いて修行した後、出羽三山を開山したといわれる。
羽黒山の山名は、皇子を導いた大烏に因んで名付けられたといわれ、現在の世を生きる人々を救う仏を祀り、出羽三山の中で里宮としての役割を持つことから「現在の世を表す山」といわれる。
三山を巡る『生まれかわりの旅』の入り口で、西の祓川と東の立谷沢川に挟まれた海抜414mの緩やかな丘陵である。
出羽三山歴史博物館。
羽黒山頂の神社境内にあり、出羽三山の歴史と文化を物語る資料を収蔵・展示している。鏡池から出土した銅鏡190面や銅製でできた灯篭竿などの重要文化財をはじめ、神仏習合時代のすぐれた仏像や南北朝時代の名刀月山など、修験の霊場にふさわしい品が数多く展示されている。
重文・鏡池出土古鏡は、平安時代から江戸時代の銅鏡190面で、羽黒山頂の御手洗池(鏡池)より出土したもので「羽黒鏡」と呼ばれている。種類は和鏡が8割強、儀鏡、湖州鏡式鏡唐式鏡がある。鏡背紋様は双鳥文と植物文を組み合わせた自然風物が多い。
内部は撮影禁止である。
出羽三山歴史博物館出口外部に展示されている奉納額。
旅人姿の松尾芭蕉像と三山句碑。
芭蕉の三山句碑。
松尾芭蕉は、奥の細道で出羽三山に参詣し、三山をそれぞれ詠んだ。
涼しさや ほの三か月の 羽黒山(すずしさや ほのみかづきの はぐろやま)
語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)
雲の峰 幾つ崩て 月の山(くものみね いくつくずれて つきのやま)
出羽三山神社参集殿。鐘楼と建治の大鐘(重文)。
参集殿は、地上2階、地下1階総床面積2,179平方メートル入母屋造り銅板一文字段葺、従来の直務所の機能に参拝者の受入施設、神職養成所機能さらに儀式殿をも附設多目的な出羽三山に相応しい立派な参集殿が昭和63年7月2日に完工された。
鐘楼堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。
鐘は建治元年(1275年)の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。
上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。
三神合祭殿(さんじんごうさいでん)。
出羽神社は、羽黒山頂の中心にあり、三神合祭殿と呼ばれ、月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀り、積雪のため冬期間参拝が困難な月山、湯殿山神社の里宮としての役割をなす。
現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建であるが、山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を残した貴重な茅葺木造建築物で、重要文化財に指定された。
社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。
現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。
建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。
三神合祭殿正面<三神社号額および力士像>。
三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している。
鏡池。
東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。
蜂子神社と左側の厳島神社。
表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っている。
出羽三山御開祖・蜂子皇子は、推古天皇の御代に出羽三山を開き、五穀の種子を出羽の国に伝え、人々に稼檣の道を教え、産業を興し、治病の法を教え、人々のあらゆる苦悩を救い給うなど、幾多の功徳を残された。民の全ての苦悩を除くという事から能除太子と称され、舒明天皇の13年10月20日御年91歳で薨去された。蜂子神社の御祭神として祀られ、御墓は羽黒山頂バス停より御本殿への参道途中にあり、現在宮内庁の管理するところとなっている。
出羽三山歴史博物館近くの建物。
出羽三山神社の主たる祭礼行事 ~松例祭12月31日[特殊神事]
毎年大晦日から、明くる元旦にかけて夜を徹して行われることから別名歳夜祭ともいわれ、羽黒修験の四季の峰のひとつ「冬の峰」の満願の祭事である。
門前町手向地区より「位上」と「先途」と称する松聖2名が選ばれ、9月24日より百日の行に励む。この間、祭壇を設え、興屋聖に納められた五穀に稲霊の憑依を祈るとともに、五穀豊穣、天下泰平を祈願する。また古来よりこの祭りの費用を得るため、松の勧進として庄内地方の家々に出向き松例祭の寄進を募り満願の日を迎える。
12月31日は地元地区の若者が早朝より昇山し「位上方」・「先途方」に分かれ、悪魔に擬した「ツツガムシ」をかたどった2体の大松明を作る「大松明まるき」がある。以降すべての行事は、この位上方と先途方の優劣・遅速等、競争の形をとり進められていく。
山頂地区から麓の「いでは文化記念館」へ向かった。