鉄の歴史館。岩手県釜石市大平町。
2023年6月12日(月)。
鉄の街・釜石の歴史は、安政4年(1858)12月1日に大島高任(おおしまたかとう)が、我が国初の洋式高炉による製鉄に、釜石・大橋地区で成功したことから始まる。
明治6年(1873)、明治政府は大橋、橋野、佐比内、栗林にあった鉄鉱山を官掘場に指定した。翌年には大橋鉄鉱山のみが官営となる。
明治7年(1784)2月、工部省工部卿伊藤博文の「陸中国閉伊郡に熔鉱炉を設置」の発議に基づき、同年5月工部省鉱山寮釜石支庁が置かれ、翌8年1月工場建設に着手した。
工場の設置場所は国の鉱山方係官大島高任の大只越(おおただこえ、現只越町・大町・港町)案と、ドイツ人技師ルイス・ビャンヒーの釜石村鈴子(すずこ・現在の釜石製鉄所の位置)案の二つがあったが、ビャンヒーの意見が採用された。「管轄地誌」によると鉱山分局鎔鉄場地坪7万434坪。工場施設は溶鉱炉から諸機械・赤煉瓦にいたるまですべてイギリスより購入した。
同年から建設が始まった官営釜石製鉄所は製銑工場(25トン高炉2基、高さ18.3m)、練鉄工場などが建てられた。当初のおもな設備は製銑工場ではスコットランド型257高炉2基・熱風炉2基・送風機1基・汽缶3基。錬鉄工場では錬鉄炉12基・再熱炉7基・汽槌2基・圧延機5基・鍛鉄機1基など。
ほかに付属設備として湾奥の港に桟橋を設置。工場と大橋鉱山・小川山(こがわやま)製炭所および桟橋の間に鉄道を敷設した。これらの総工費は約250万円であった。
お雇い外人はイギリス人13人とドイツ人3人。
明治13年(1880)に操業を開始。高炉に火入れが行われた。一日約7トンの銑鉄を生産したが、木炭消費量が1日1万貫にもなって燃料枯渇に陥り、操業わずか97日で製錬中止となる。その後木炭の大量準備とコークス製造などを行い、同15年3月操業を再開するがこれも失敗し、製炭場の火災による木炭の供給不足や、鉱滓が出銑口をふさぐなど操業が安定せず、釜石鉱山の鉄鉱石の埋蔵量も工部省から低く見積もられたことが重なり、同16年廃止と決定。官営釜石製鉄所は操業延べ日数293日で終わる。
明治18年(1885)田中長兵衛が諸施設の払下げを受け、民営として製鉄所再興に着手。
明治19年(1886)10月16日幾度か失敗を繰返しながらついに出銑に成功、以降この日を起業記念日として山神社の大祭を行っている。
明治20年(1887)釜石鉱山田中製鐵所設立。
明治27年(1894)ドイツの鉱山大学で学び、帰国後は東京帝大工科大学で教授をしていた冶金学者の野呂景義(1854-1923)を顧問に、その弟子・香村小録(1866-1939)を現場の技師長に迎え、野呂が提唱したコークス利用の製銑法に挑戦。改修し30tに大型化した官営時代の高炉で、日本初の「コークス銑」の産出に成功した。
大正13年(1924)三井鉱山株式会社に経営権を譲渡し、釜石鉱山株式会社となる。
昭和9年(1934)日本製鐵株式會社釜石製鐵所となる。
昭和20年7月、8月の二度にわたる艦砲射撃でほとんど壊滅的な被害を受けた。
昭和23年(1948)第10高炉の火入れを行い復興させる。
昭和25年(1950)4月1日、富士製鐵株式會社釜石製鐵所となる。過度経済力集中排除法によって日本製鉄は分割され、釜石製鉄所は北海道室蘭市輪西・兵庫県姫路市広畑などの製鉄所とともに富士製鉄株式会社釜石工場として再出発した。
昭和45年(1970)新日本製鐵株式會社釜石製鐵所となる。富士製鉄は八幡製鉄株式会社と合併して新日本製鉄株式会社となった。
平成元年(1989)第一高炉休止。銑鋼一貫体制から線材部門を軸とする複合経営に転換。
平成8年(1996)休止中の高炉解体。
見学後、道の駅「大船渡」へ向かった。