1960年6月15日、当時東大生だった樺美智子さんが国会議事堂構内で亡くなってから今日で丁度50年の歳月が流れました。
その年の5月19日、当時の岸内閣は「日米安全保障条約改定案」を衆議院本会議で”強行採決”し、国民の大きな怒りを買い、連日の様にその事を抗議するデモ隊が国会を包囲していました。「民主主義を守れ!」「安保改定反対!」のシュプレッヒコールが国会周辺で叫ばれていました。
しかし憲法61条ならびに60条2項によれば「衆議院の可決した条約の締結に必要な国会の承認については、国会休会中を除いて30日以内に、参議院が議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする」、いわゆる自然承認の日、6月19日が刻々と迫りきていました。このままでは「日米安保条約」が自然成立してしまう事を”座して待つ”事を拒否する戦術を取る全学連主流派は国会内への突入を志向。丁度50年前の、時1960年6月15日、全学連の一員として国会に突入した際、警官隊と衝突して樺さんは死亡されました。
この惨事は国民に多くの怒りとショックを与えました。当時高校3年生だった私も大きな衝撃を受けました。私は勤務先の日本光学(現在はNikon)労働組合主催の「安保反対」デモには何回か参加していましたし、定時制高校生として社会班(今で言う部活クラブの一つ)の一員でもあった私は、授業の合間をぬっては国会議事堂へのデモにも参加していました。
ただ安保条約が自然成立してしまうことには高校生の間にも危機感が広がり、私たち社会班を中心に学内に”安保阻止共闘会議”(名前は不確かです)のような名称の非公式の会議を立ち上げ、私たちに何が出来るかを議論していました。
そんな中で出てきた案が生徒総会終了直後に安保反対決起集会を開くことでした。勿論学校への届け出はなく、ゲリラ的開催です。4年生から、私が決議文を作り、提案もしろよと話があり、私が決議案を作成しました。多分「民主主義を破壊する強行採決は無効である」と「安保反対」を主張したと思いますが、何故か「私たち高校生にも生存権があることを・・・」と書いた記憶が鮮明に残っています。
生徒総会が終了すると4年生が中心になり壇上に登り、決起集会を開くから残ってくださいと叫ぶと、200名ほどの生徒が残りました。議長席に座った先輩は、討論を省略し一気に決議文の朗読を提案し、慌てて私が決議文を読み上げ終わると、議長は「賛成の方は拍手をお願いします」「大きな拍手で決議文は承認されました」と一気呵成に事が運んで決起集会はあっけなく終わっていましました。この決議文が何処に提出されたは、私の記憶にはありませんが・・・。
兎も角、短時間で”名”を取ることに終始した展開でした。不思議なことに学校当局からお咎めはありませんでした。「高校生の政治活動禁止」が謳われていましたが、この当時、授業が開始されるとデモ参加の様子を話をしてくれる先生もいる一方で、当時の主事(現副校長)は元日教組中央執行委員長成田喜英氏、こんな背景が幸いしたのかもしれません。お咎めを受けることはありませんでした。今ではこんな事では済まされないでしょう。
活動の最中にあった私は樺美智子さんの死に大きなショックを受けながら、1960年5月18日夜、国会議事堂周辺に陣取り、シュップレッヒコールを繰り返していました。
結局、安保条約は6月19日自然成立し、7月15日岸内閣は総辞職。その後1970年以降は安保条約は自動延長となる一方、どちらから一方が終了通告をすれば、その1年後には終了可能になりましたが、40年間安保条約は自動継続され、その延長線上に、今普天間基地問題があります。