マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

津和野町と文京区のゆかり

2014年04月22日 | 東京散歩

 淡墨桜を眺めようとする旅は、弘法山古墳→飛騨高山→神岡城→飛騨古川(古川祭)と巡って、一昨日の20日(日)に帰宅した。流れからすれば、今回のブログには飛騨高山を登場させるはずであったが、事情があり、後日に回す。

 
4月7日(月)に石見神楽を観た際の文京区長の挨拶が気になっていた。津和野町と文京区を繋いだ人物として紹介されたのは森鴎外以外に坂崎出羽守と津和野藩主だった亀井氏。大阪夏の陣で、大阪城落城の際、千姫を助け出したと伝えられる坂崎出羽守は津和野藩の初代城主。助け出された千姫は文京区にある伝通院に眠る。町と区の両者を結び付ける話としては些かこじつけの感を拭えないが、それはそれで分かる。
 
もう一つは、廃藩置県の際の城主だった亀井氏と区の関わり。亀井家は明治期に入り、屋敷を小石川区丸山町に居を構えたと話されていた。その話を聞いた翌日、千石2丁目を早朝に散歩したが、それらしき建物は見当たらなかった。丸山延寿会の方に電話で聞いてみたが分からなかった。
 4月16日(水)に行われた「文高連総会」には区長も出席した。懇親会の席で、直接区長にその話を確かめた。亀井氏は明治になってから伯爵となり、その屋敷が現在の千石3丁目、かっての丸山町にあったとの話であった。亀井氏別荘に格段の興味があったわけではないが、気になってしまった謎。解いておきたかっのでネットで調べた。
 ”旧亀井伯爵屋敷”で検索し、漸く到達した情報によれば、屋敷は、現在の千石3丁目37番地(旧丸山町八番地)にあったとのこと。そこは、かって散策時に見たことのある、ひときわ目立つ洋館の建つあたりであった。通り一つ隔てて「伊勢五」という米屋の建物が登録有形文化財に指定されている。やや苦労して知りえた結果が、かって散策した一角にあったとうい意外。(写真:千石3丁目37番地に立つ洋館。旧亀井伯爵邸ではないらしい)
 あそこだったのかと、4月17日の朝撮影に出向いた。そこはすでに宅地分譲され高級住宅が立ち並んでいて、洋館は現在は天理教の分教館で、かって亀井家が住んでいた洋館も和館はすでに取り壊されていた。

 
    (「千石界隈」より拝借の写真。旧亀井邸右が玄関)


 (『東京たてもの伝説』より。使用人の記憶に基づく、大正時代の亀井邸配置図)

 森まゆみ、藤森照信共著に『東京たてもの伝説』なる本があることも知った。「同潤会アパート」や「平塚千鶴子邸」などと並んで「旧亀井茲明伯爵邸」訪問記が載っている。亀井茲明は明治16年、小石川丸山町のこの地に引っ越し、翌年、邸が完成。明治36年には周りの土地をも購入し、道路に囲まれたブロック全体が亀井家所有の土地であったという。地図から推測するに優に3000坪を超えている。亀井家は、東京大震災の翌年までここに住んでいた。
 実は茲明は、孝明天皇の側近だった堤哲長の三男で、16歳の時に亀井家の養子に入った。その実兄が、建築家として名高い松ヶ崎萬長。私が昨年8月に訪れた青木周蔵那須別邸は彼の唯一の遺構。旧亀井家洋館も彼が建築設計した可能性が高いとあった。区長の挨拶から出発した連鎖は、青木周蔵遺構へと繋がっていった。(写真:昨年見学した青木周蔵那須邸の端正な建物)








     (やや斜めからの撮影)

 
 (建物内部)           (青木周蔵が利用した乗り物)