「特別弔慰金」という制度がある。例えば夫が、太平洋戦争の際に召集されて戦死した様な場合、その妻には「戦没者遺族年金」が支給されていたが、その妻が死亡した場合に、その子供達に支給されるのが「特別弔慰金」である。
その制度趣旨に「戦後70周年に当たり、今日の我が国の平和と繁栄の礎となった戦没者等の尊い犠牲に思いをいたし、国として改めて弔慰の意を表するため、戦没者等のご遺族に特別弔慰金(記名国債)を支給するものです」とある。
そもそも遺族年金が、遺族会などを念頭に置き、時の政権党が選挙対策的狙いをも秘めて設けた制度であることは否定できない。特別慶弔金がその延長線上にあることも十分承知しながら、遺族である、私達(私と妹)は、私を名義人として、当然のこととして、支給金を受け取る準備を開始した。2015(平成27)年改正法案によれば、今後5年毎に国債として毎年5万円の支給とある。今年は母の7回忌、その時に使用する予定。
先の戦争で亡くなられた方は、何も戦死者だけではない。侵略を受けて死亡されたアジアの方々や、大空襲で亡くなった方々もいる。それらの人々や遺族への補償がなされていない現状も承知してのことでもある。これが魁になればとの思いがある。
靖国神社に閣僚たちが参拝する際に「お国の為に殉じられ亡くなられた方を、国としてお祀りすることは当然」旨の説明がされることがよくある。ここには言葉のレトリックが隠されている。「お国の為に殉じられた」との表現では、亡くなった方が、先の大戦に進んで参加したことを意味することとなる。その様な方もいただろうが、大多数の死者は実際にそうだったのだろうか。
召集令状という赤紙一枚で、妻や親や子供との惜別を強制され、異国へと駆り出され、異国の地で無念の死を遂げた者は、最期に何を思っただろうか。例えばその様に死んでいった自分の父の想いは望郷だったろうと私は思っている。どんなにか生まれ故郷へと帰り、家族と再会したかったか。想いを語れない者の気持ちは汲み取るほかはない。多くの戦死者もそうだったろうと私は思い、この60年間の、大げさに言えば、人生指針の一つとして来た積りである。
個の視点で戦争を考察すれば、人間が一番なしてはいけないことは、刑法に定めるまでもなく殺人である。その一番なしてはならないことを、国が命じる。これは国の犯罪と言っても過言ではない。「お国の為に死んだのではなく、国の為に殺された」のだと私は思う。その様な誤りを為してしまったものの為すべきことはとは、特にアジアへ向けては、深い謝罪と不戦の誓い。先の安倍首相の演説ではそれが全く不十分だった。集団的自衛権の行使容認を柱とする法案が衆院へ提出された今日、特にその思いを強く抱く。