六阿弥陀一番の西福寺から見て二番の、小台にある延命寺は隅田川の下流に位置する。それなのに何故、参詣者は隅田川の上流にある「阿弥陀の渡し」に向かったのだろうか?安政年間の地図には「六阿弥陀渡」とはっきり書かれている。延命寺が渡しの向こう側直ぐ傍にある恵明寺に合併されたのが明治九年。それ以前の安政年間に何故小台にある延命寺に向かわないで、上流の渡しに向かったのか、私が抱いた疑問である。謎といってもいい。
その謎を私なりに解いてみた。
(1)「阿弥陀の渡船場跡」の説明板には「二番延命寺(江北橋北詰にありましたが、明治九年恵明寺に合併されました)への・・・」とある。読み過ごしていたが延命寺は、ある時から小台ではなく江北橋北詰にあったのだ。 (2)早速重ね地図で、現代の江北橋付近と江戸時代の地図を見た。地図には恵明寺のすぐ傍に「別当延命寺」があり、「六阿弥陀二番」とも書かれている。(写真右図)
(3)恵明寺に電話をして、私の感じていた疑問点をお尋ねしたしたところ「江戸末期には延命寺は無住職であったかもしれません」とのことだった。
これらのことから、私は次の様に推測した。(b)がポイントである。
(a)ある時まで、小台村にある延命寺が六阿弥陀第二番としてあった。
(b)あるときから、阿弥陀仏は恵明寺傍の別当延命寺に移され、安政時代を経て、明治時代までそこに安置され、こちらが第二番となっていた。それ故、参詣者は阿弥陀の渡しを渡った。
(c)明治九年、延命寺は恵明寺に合併された。
ここからは「足立区郷土資料館」によるが
(d)合併した後も、境外仏堂として六阿弥陀仏は旧地に安置されていた。
(e)明治44年に荒川放水路が作られると、仏堂がその河川の敷地にあたることになり、現在地(恵明寺内)に移転した。
再度安政地図を見ると、ピンク色が寺地だが、小台村飛地内にある別当延命寺は殆ど地がない。人が住んでいたとは考えられない坪数だ。とすれば、阿弥陀仏や参詣者の面倒を恵明寺が見たと考えることが出来る。その流れの中で明治九年に恵明寺に合併されたことは極めて自然なことだったろう。恵明寺へ移管に関しての記述はいろいろ読んだが、記述は(a)から(c)に飛んで(b)には触れられていない。(b)の様に書かれた文章にはお目にかかっていない。読者諸賢の批評を待ちたい。