妻の預金口座の名義変更と同時に、妻名義の貸金庫の解約の手続きも取らねばならなかった。解約の当日、貸金庫に保管してあった少々のものを持ち帰る時に、一枚の写真に気が付いた。忘れていたが、記念にと大事にとっておいたのもので、16歳の私が働いていた頃の写真。ほぼ66年前の私の写真だった。
1957(昭和32)年、私は中学を卒業すると同時に「日本光学㈱」(現在名ニコン)に就職し、その付属の「技能養成所」に入所した。
午前中は国語・数学・物理など高校生が学ぶものとほぼ同じものを学び、午後が作業実習だった。学びながら普通に給料がもらえるということで、この養成所の人気は高かった。その年の中卒男子の入所者は35名で、入所すると一方的に職種が決められていた。35名は機械工・仕上工・検査工・レンズ工・塗装工などに別れ、それぞれの職場に配属された。
ただ、機械工8名と仕上工8名の16名は、工場のある建物とは離れた箇所に建てられた「実習所」と名付けられた場所での訓練・生活・学習などが行われていた。私の職種は仕上工だから実習所で過ごしたことになる。この実習所生活にも大分慣れてきた翌年の2月頃、鬼よりも怖い落合所長から「川口、教官室へ来い」と呼ばれた。又何かミスをして大目玉を食うのを覚悟で教官室に入ると、小言ではなく「こちらの方は産経新聞社の記者さんだ。質問にちゃんとお答えしなさい」と言われ、後はその記者さんと2人だけになった。「中学を卒業して1年ほどたった今、皆さんがどんな生活をしているか知る為のインタビューです。率直なお話を聞かせて下さい」との挨拶があった。
後で知ることになるのだが、産経新聞社は1カ月ほど前から「中学をでて1年」という企画を始めていて、私が5人目の“工員のまき”だった。私の前には寿司職人見習いさんや、バスガール―さんが登場していたらしい。インタビューは30分程度で済んだろうか。その内容が1958(昭和33年2月19日)の産経新聞の記事になり、所長を通じて私にも渡された。
内容は兎も角、新聞が必ずしも真実を伝えるのではないなということを16歳の身で知ってしまった。記事にはインタビューの内容が載っているのではなく、私の手記の体裁をとった記者の書いた文書が載っていた。更に、私は仕上工だから鑢かボール盤を使って作業をしているはずなのに、それでは絵にならないと考えたのだろう、颯爽と旋盤を操作している写真が載っていた。はっきり言ってこれは事実ではない。
それはそもかくとして、内容は概ね正しかった。「つらい仕事と勉強」、「日曜日はねるのが楽しみ」との見出しを見ると、青春時代とは思えない自分がそこにいる。私の書いた文章ではないが、私が書いたことになっている文章を以下に綴る。興味のない方は読み飛ばしてください。
『父が戦死し、母と妹の3人ぐらしです。東京生まれで、東京そだちですから、中学時代とくらしのてんでは、そんないにかわりはありません。この会社では、養成所で高校と同じくらいの学力をつけてくれますから、進学しなかったことはあまりきになりません。一番つらいのは朝6時に起きることくらい。それと数学・化学・物理の予習や復習を、仕事の後でやらねばならないことがちょっとこたえます。
あと2年養成所にいて、それから1人前になるわけですが、いまでも、会社の忙しいときはセンパイたちにまじって、お手伝いをしています、勤務時間は8時から4時までで。しっかりした一人前の技能者になれるよう、実習と学科で過ごす毎日です。給料は手取りで七千円もらっていますが、中学出としてはいい方とのです。
中学のときと、うんとかわったことは、日曜日に昼頃まで寝ていることです。好きな映画も中学のときよりみなくなりました、生活がいそがしくなってヒマがないんです。数学と物理などの学科はとくいなのですが、どうも実習のほうはあまりとくいではありません。それでいまいちばんこころがけ努力しているのが、なんとかしてこの実習をうまくなる、ということなんです』で終わっている。
記者が去った後、所長曰く「お前をインタビューに向けたのは、お前が一番ソツがないからな」と。どうも養成所内の出来が良いから選ばれたのでなかったらしい。私がニコンを退社したのはこれから3年後だった。
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