マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

ブルーベリーを摘みに

2019年07月11日 | 

 昨日の10日(水)、指圧屋「SUCROSE」の水野さんと長野県富士見町先達へ出掛け、ブルーベリー2kgを摘んで来た。例年のように水野さんが借りたレンタカーが我が家の前に到着したのは7時5分。
 ブルーベリー農園⇒たてしな自由農園⇒そば西村⇒キャトル・セゾン⇒ツルヤ上諏訪店と回り、帰宅したのが19時丁度。ほぼ12時間を要したが、例年よりは短時間での買い物旅行だった。(写真下:付近を通過する中央本線を貨物列車が通過する)



 何回か書いたことのある信濃路行でもあり、今回は簡単に記しておきたい。
 天候はブルーベリー摘みには最適な天候だった。前夜は激しい雨が降ったとのことだがこの日は微かに太陽が顔を出す程度。昨年の様な猛暑では無かった。ただブルーベリーは割れてしまった粒があり、それを摘まないように気をつけながら摘んだので、摘むのに時間が掛かかり多くは獲れなかった。2kg(キロ1100円)の他に予め依頼しておいた3kg(キロ1600円。2kgは知人の注文分)の合計金額は7000円。水野さんは1.5kgを摘んでいた。平出夫妻と少し話した。私達はここへは15年くらい前から訪れていることが確認できた。。来年も宜しくと言って別れた。





 続いて、たてしな自由農園へ。以前よりも”たてしな物”以外の農作物が増えたように見受けられたが、私達はズッキーニなど蓼科産を中心に購入してきた。





 そば西村へは水野さんは初めてだった。3人とも2000円の蕎麦定食を注文した。蕎麦がき・そば・かやくご飯と続き、最後にコーヒーとキャトル・セゾンのケーキが出て来た。水野さんは好きな「黒糖シャーベット」をリクエストしたが、これが非常に美味しかったらしく大層喜んだ。




 そのケーキ屋さんで私達は初めてシフォンケーキを購入し、夕食時にこれを食した。ふわふわな食感が素晴らしいケーキだった。(写真:下が黒糖シャーベット)




 ツルヤ上諏訪店では999円の果実酒用の焼酎など、普段購入するよりも格安のものを多数購入。自宅まで運んでくれる車あっての購入になった。高速料金とガソリン代の合計金額は15453円とお安い交通費で済んだ。(写真:帰路車窓からは八ヶ岳の稜線が望めた。下は収穫して来たブルーベリーの粒)


富士前福寿会、地元の小学校と交流

2019年07月09日 | 文高連

 7月5日(金)、私達富士前福寿会は地元の小学校と交流のひと時を持った。多分、小学校のほうから、高齢者クラブの活動室を通じて「輪投げを指導してくれる高齢者クラブを紹介して下さい」という様な話があったのだろう。地元であり、輪投げでは有名な私達のクラブに打診があり、相談を受けた会長の小林さんを含め5人で、小学校にお邪魔した。
 活動室の方が運んできた「輪投げ」一式を、私達は体育館に4組セットし、待っていると、現れたのは4年生の2クラスで、合計人数は45人程度。3時間目の授業だっただろうか。この日は、”太巻き寿司作り”と”輪投げ練習”の2つのコースが用意されていて、寿司作りを指導するのは、やはり、ご近所の高齢者クラブ゛浅嘉長寿クラブ”の皆さん。その方々と私達5人が前に立って紹介されると、「宜しくお願いします」と、元気な、大きな声が返って来た。
 全員が担任の先生によって2つのコースに分かれた後、輪投げを選択した23人の生徒を前に小林会長が輪投げ起源などを説明し、会長夫人が模範演技を披露した。輪投げは4つセットされていたから、私を含めて4人が模範投擲を披露するのかなと、張り切りもし、緊張もしていたのだが、私を含め他の3人の出番はなかった。(写真:説明する小林会長)











 児童23名に先生1人を加えた24名を4つのコートに分け、各コートの6名が輪を投げ合計点を競った。通常は5m先の得点台に投げるのだが、小学生用はやや短い3m離れたところから投げた。私達は審判員になった。最初は台を越えてしまう投擲が多かったが、段々慣れてきて見事得点棒に入る輪が増えて来た。得点を掲示しチームで競い合うようにしてあったので、熱中する子供さんも多数いた。6人の投げた得点合計が100点を超えるチームもあった。6人が6回投げてゲーム終了。










 輪投げの指導というより、授業のお手伝いになっていた。最後に、太巻き寿司組の作った手巻き寿司を私達も頂いた。形がやや崩れたお寿司もあったが美味しかった。
 平均年齢80歳に近い高齢者クラブと小学4年生の出会いは交流になっていただろうか?児童たちが夢中になる姿を見て、立派な交流になっていたと思う。
 跡見学園との交流に続いて小学生との交流。文京区の高齢者クラブが地域で果たす役割は少しずつ拡大されているように見える。
 


一昨夜は『養和スポーツスクール』で

2019年07月06日 | 身辺雑記

 一昨夜は『三菱養和スポーツスクール』で一献傾けた。集いしは、「お話会」のメンバーの津久井さんと私の妻、それにこの「お話会」で最近語った尾上さんと池辺さん。更に、場所確保の役割を担う私の5名。
 養和スポーツスクールは巣鴨駅徒歩3分にある、公益財団法人「三菱養和会」が運営するスポーツクラブだが、実はこの建物の中に「レストラン・パルテール」があり、洋室レストランも和室もあった。私は20年ほど前まではこのスポーツクラブの会員で、水中ウォーキングの後にレストランを利用したこともあったが、その存在を忘れていた。津久井さんは知っていて、夜の会食に相応しいとここが選ばれた。
 和室の利用は初めてだった。建物の地下1階の奥の方にあり、利用した部屋は15畳の広々とした部屋で炬燵形式の席になっていた。料理はコースで3500円とお安い。三菱から多少の補助が出ているのだろうか?







 料理を味わう暇もないほど会話が弾んだ。池辺さんは、「お話会」でのテーマが「生涯一記者として」とある様に、週刊朝日の記者だった。そのお話会での語りが大変面白く、妻は記録を取っていた。私は初めて直接話を聞いたのだが、流暢な語りで、話す内容が豊富だった。「伝書鳩」の話をした尾上さんは豊島区の、とある町会の会長だったが、その後を引き継いだのが池辺さん。現在は再度尾上さんが会長職にあるそうな。
 尾上さん、池辺さん、津久井さんはラジオ体操を通じて知り合ったという。話題はその地元
目白通り周辺の事(例えば目白御殿)や落語・小石川高校・早稲田大学などあちこちに飛んだ。

 その中で3つのことを書き綴っておきたい。池辺さんには色々の著作がある。そのなかの一つ『ゆきあいの空』(副題:アルツハイマー・パーキンソン老人看病記)は池辺さんの体験を綴ったもので相当売れたらしい。












 津久井さんは昔から落語が趣味でこの方面に詳しい。昨夜は『東都寄席演芸家名鑑』を持参していて皆に配布してくれた。彼の友人が作成したのもの
で一冊2000円もする。この本で話題は落語家に及んだ。三遊亭兼好の師匠が好楽とは私達以外は皆知らなかった。
 
尾上さんは鳩に関する本を自主出版しようとしていて、写真の面で私が少しお手伝いをしていた。最終的には断念されたようだ。
 非常に楽しい会だった。

 


『江戸上水基礎講座』(第2回 神田上水)に出席

2019年07月05日 | 江戸の川・東京の川

 6月22日(土)、東京都水道歴史館主催の『江戸上水基礎講座』第2回に出席してきた。担当学芸員は前回と同様の金子氏。多分全6回を講義されるのだろう。パワポを使用してのテンポの速い講義になんとか食らい付いてきた。
 今回のテーマ「神田上水」がポピュラーであったからか、100席ほど用意された椅子席は殆ど満席で、不覚にも講義開始5分前に着いた私は最後列に座らなければならず、パワポの画面を見るのに立ち上がらなければならない場面もあった。
 このブログの読者の方も知っているだろう基礎的な事柄も含めて、この日の講義内容をまとめておきたい。

 (1)神田上水とは
 江戸時代の初めに造られ、1901(明治34)年まで機能した、江戸の二大上水のひとつ(他は玉川上水)。その流路は井之頭池の湧水に発し、善福寺池、妙正寺池からの水を合せながら現在の神田川の経路をたどり、目白台下の関口大洗堰から分流し、水戸徳川家の小石川邸を経て、お茶の水の掛樋を通り、駿河台下から神田・日本橋方面へ導水されていた。大洗堰で分流された余水は江戸川(1980年からは神田川に名称変更)と呼ばれ隅田川へ。(写真:三田上水などを除いた江戸四上水概略図)

 (2)平川の付け替え
 明治まで存在した神田上水の流路が確定するのは、元和年間(1615~24年)の平川の付け替え以降となる。この付け替えは、現在の神田川→日本橋川→東京湾へと流れていた旧平川を、隅田川へと流れを変える仙台藩の堀削で、お茶の水駅のホームから眺められる流れがそれ。

 (3)神田上水の誕生
 実は、神田上水の成立年代や、その経緯を明確に記した資料は発見されていない(玉川上水の成立年代は明確に資料に残る)が、家光の寛永年間後期には流路が固まっていたことが、各種絵図からわかる。
 今のところ、神田上水の存在が確実に分かるのは、その流路が描かれた臼杵市教育員会所属『寛永江戸全図』のようで、江戸城の整備過程を考えれば、幕府成立後の慶長期あるいは仙台堀掘削後の元和~寛永前期あたりと推測できる。(私の感想・・・学芸員ともなる、物言いが慎重になるな)
 

 (4)神田上水の流路
 井の頭池・善福寺池・妙正寺池からの湧水を併せた流れは関口大洗(文京区関口)に至る。そこで神田上水を堰き止めて水位を上げ、分岐導水した。石組みで、方形の堰が設けられていて、中央に造られた溝から余水を下流に流す。増水した際に、堰が壊れないように、水が堰の上面を越えて流れる仕組みになっており、上面の石畳を水が洗う様に流れることから「洗堰」と呼ばれた。
 堰から取り入れられた水は、白堀と呼ばれる開渠で水戸徳川家の上屋敷に入り、屋敷 では園池(後楽園)にも水を供給し、その後本管は暗渠(地下)となって、お茶の水換樋を渡り江戸市中に配水された。(写真:上は関口大洗堰。下左は神田川と立体交差する懸樋。いずれも『江戸名所図会』より。下右はこの地点に懸樋があったことを示す碑で、現工芸高校前辺り)
 
  

 (5)神田上水の終焉
 水質管理の為、関口大洗堰から水屋敷間の白堀部分のアーチ状の石蓋が為され(その辺りは現在巻石通りと呼ばれてい
る)などの補修はあったものの、1901(明治34年)神田上水と玉川上水は利用停止となった。


 

 
 


『安倍官邸vs.NHK』(著:相澤冬樹 出版:文藝春秋)を読む

2019年07月03日 | 読書

 評判になっていた本だけあって、オンライン予約してから数ヶ月して漸く手元に届き、昨日読み終えた。著者は元NHKの記者だった。既にNHKを退社し(辞めさせられたと書くべきかもしれないが)現在は大阪日日新聞社の論説委員かつ記者なので、元NHK記者となる訳だ。
 かの森友学園問題について、全国報道では「朝日が火を付けた」と言われ、その通りなのだが、関西方面では朝日の報道に先んじて一番最初に報じたのはNHKで、その原稿を書いたのが相澤記者だった。
その相澤記者がNHKを退社するまでの一部始終を書いたのが本書である。



 私には偏見があったと思う。NHKの記者は、誰も皆現政権寄りの記事を書くのだと思い込んでいた。そんなことはないのだ。相澤記者は自称右翼ながら、真実を報道しようという記者魂に富んでいて、安倍政権に都合の悪いことでも原稿に書く。スクープを狙ってもいる。NHKの記者も新聞社の記者と同じように特ダネを狙っていることも初めて知った。 
 例えば、相澤記者による、森友問題のスクープ原稿の概略は次の様になる。
 「大阪・豊中市内にあった国有地を国が学校法人に売却した金額が公表されないことから、豊中市の市議会議員が金額の公開を求めて大阪地方裁判所に訴えを起こした。この土地に建設中の小学校の名誉校長には、安倍総理大臣の妻昭恵氏が就任しています。会見で木村議員は”近畿財務局が売却した過去3年間の土地の代金はインターネット上公開され誰でも見られる様になっている。この土地だけ情報公開を請求しても金額を出さないというのは、背景に何かがあると見られても仕方がない”と訴えました」
 しかし、この原稿はデスクにより書き換えられる。
 相澤記者は籠池理事長への単独インタビューにも成功していた。大坂地検特捜部への突撃取材も敢行し記事を書いていた。現政権に都合の悪い記事は、彼の上司やNHK上層部によって何度も書き替えさせられた。そのやり取りに多くのページが割かれていた。
 「安倍官邸vs.NHK」との本名は適切ではないと思う。これではNHKが官邸と対立しているように読めてしまう。本書は”真実を報道しようとする一記者”対”安倍官邸へ忖度をして記事を書き換えさせようとするNHK上層部”という構造になっている。
 籠池夫妻は詐欺容疑で逮捕されて、問題の本質が目くらましされ、財務省関係者全員は不起訴で森友問題が一応の終焉を迎えたかに見えた昨年の5月14日、相澤氏は考査部への異動を告げられ、記者から外された。
 森友問題の本質は、なぜ大阪府は認可条件を満たない学校を認可しようとしたのか?なぜ国有地を近畿財務局は破格の値引きをして売却したのか?にあったのだ。まだ何も解明されていないと考える相澤氏は、この問題の真実究明の報道の為にはNHKを退職し大阪日日新聞へと転職せざるを得なかった。