マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『日本人はどこから来たのか?』(著:海部陽介 出版:文藝春秋)を読む その2

2019年10月15日 | 読書

 『日本人はどこから来たのか?』を読んで知り得た事柄をまとめておきたい。
 本書後半部では(2)ユーラシア大陸東端に達したホモ・サピエンスはどのようなルートを経て日本列島に上陸したのかが語られる。 
 日本では3万8000年前に、突如人類遺跡が爆発的に現れ始める。それ以前の遺跡には確証がない。3万8000年前以降に、3つのルート、すなわち対馬、沖縄、北海道から、時期的にはこの順で、別々に、それまでいわば無人の野であった日本へ、初めて祖先が足を踏み入れた

 この列島に初めてホモ・サピエンスが到達したのはいつだったのが非常に大事なポイントだ(と初めて知った)。日本列島周辺の地理的状態が2万年前と、4万年前では大きく違うからだ。
 右のA図は推定される5万~3万年前の日本列島の地図。現在の地形をそのまま海面を80m下げた地図で、①瀬戸内海は無く、本州・四国・九州はつながって一体となった「古本州島」を形成し、朝鮮半島とは、今よりも狭い海峡で隔てられていた。②北海道は、サハリンを介してロシアのアムール河口域まで陸続きだった。③図からは北海道は「古本州島」と陸続きのように見えるが、津軽海峡を挟んで実は離れている。この海峡は深いのだ。(右はA図)











                             



                    
 右のB
図は2万年前頃の日本列島で、3万年前を過ぎる頃から列島の寒さはさらに厳しくなり、2万年前頃にそのピークを迎える。現在より約130mも下がった位置にあった。対馬は古本州島に取り込まれ、日本海はほとんど湖と化していた。朝鮮半島と陸続き化したかに見えるが、この間も数キロメートルの海峡が横たわっていた。(右はB図)












                             



 日本への渡来を3万8000年前とすればA図での渡来となり、図の様な3つのルートが考えられる。
 3つのルートのうち、最も早く日本に入ったのが対馬。朝鮮半島から対馬を経て北部九州へ至るルートで、海を越える必要があった。日本列島の土を最初に踏んだ祖先たちは航海者だった。
 次の渡来は沖縄ルート。沖縄地方における旧石器時代の人骨が宮古島(ピンザアブ人 3万年前の人骨)や石垣島(白保竿根田原 2万4千年前の人骨)などで相次いで発見されている。台湾から黒潮を横断し沖縄列島に至るルートは100Kmをはるかに超え航海が必要。沖縄に来た祖先として、遺跡証拠からヒマラヤを南ルートで越えた人々としている。その航海の本当の苦労を知ろうと、筆者を中心にしたグループが航海の再実験を行っている。
 
 北海道ルートは、サハリンから北海道へと南下するルート。2万5000年前頃から北海道への移住を支持する証拠として北海道の縄文人のDNA分析がある。シベリア集団の南下は実在したと捉えている。

 3万8000年前の古本州島に現れた集団が、基本的にその後の縄文人へと連続していった可能性が高い。旧石器時代~縄文時代のこの地域において、“最初の日本列島人”たちの系譜が途絶えることなく、劇的な集団の交替が起こった証拠は見出されていない。
 縄文人と弥生人の交わりについやアイヌ人について、本書では簡単に語られている。より詳細な話を知りたいと思うが、それはまた別の書を待たねばならないようだ。
 
 


『日本人はどこから来たのか?』(著:海部陽介 出版:文藝春秋)を読む その1

2019年10月12日 | 読書

 今日12日(土)、超大型台風19号接近の影響を受け、「文京区勤労福祉会館」は終日休館となり、予定されていた「協働のまちづくり講座」は延期となった。代替の日程は決まっていない。


 さて、本書では、約10万年前、出アフリカした私達の祖先ホモ・サピエンスの、日本列島へ至る大移動の歴史が描き出される。そのシナリオは、著者が「私自身が過去10年間に蓄積してきた研究と知識を総動員してまとめあげた、新しい学説である」と書いたように、渾身の力作で、最近読んだ本の中でも非常に面白かった。
 著者は国立科学博物館人類史研究グループ長。遺跡調査を日本の国内で閉じているかぎり本当のことは分からないと、積極的に海外での調査・発掘に参加し、海外の遺跡との比較とDNAの研究という重層的な考察を進めて来た。

 まず大前提として(0)ホモ・サピエンスはアフリカの旧人から進化して世界へ広がったとする、定説「アフリカ起源説」が述べられ、その後(1)アフリカからどのようにしてユーラシア大陸東端に到着したのか?(2)大陸東端に達したホモ・サピエンスはどのようなルートを経て日本列島に上陸したのか?が語られていた。
 
 (1)を考察する上でまず問題としたのが『海岸移住説』で、これは、海岸をつたう第一波の移住があったとする説で、人類は魚介類が豊富に得られる海岸に沿って移動したとする。主として欧米の研究者がアクティブに発言している。しかしこの定説に疑問を持ち続けて来た海部氏は、ある1枚の地図を作ることで、この説を根底から覆す。
 初期のホモ・サピエンスが残したと確実に言えそうな遺跡をピックアップし、信頼出来る年代値とともに書き込んで作成したものが一番下の地図である。(年代値は千年単位。「45」は45000年前のこと)

 その図から海部氏は「アジアの南と北、それにヨーロッパも含めて、ユーラシア全体への拡散が、爆発的な一度のイベントであった」とする仮説を唱えた。そのうえで、私達の祖先は4万8000年前、ヒマラヤ山脈を南北に別れて拡散していったとする新しい拡散シナリオを展開した。(右の図は矢印2つで南と北の拡散を示している)

 本書では人類誕生からの約700万年の歴史、その進化の5段階についても解説され、私の様な人類史の初学者にとっての恰好の入門書にもなっているところが有難かった。(続く)
 






『深田研』一般公開2019

2019年10月09日 | 考古学

 我が家から徒歩5・6分の至近距離に『深田研』がある。閑静な住宅地の一角に一軒だけ直線的なデザインの建物が建っている。知る人ぞ知るの地質研究所だ。私はその前を通り千石駅に行く関係で、その存在も数日前の一般公開も知っていた。



















 10月6日(日)の午前中に出掛けたのだが、激しい雨にも拘わらず来場した多くの人で賑わっていた。子どもたちの参加も多った。子どもに人気のあるイベントが幾つか用意されているのだ。
 「深田研」の正式名称は「公益財団法人 深田地質研究所」で、ホームページには次の様に書かれている。
 「深田淳夫氏と故陶山國男氏が<地質工学の創造>を旗印に掲げ、現在の敷地に財団法人としての研究所を設立しました。<公共の利益になる研究を行う>という精神の下、純粋な民間の地質調査に関わる財団法人として6名でスタートし、すでに創設以来60年以上の長い歴史を刻んできました。そして2011年には、この精神をさらに鮮明にするために公益財団法人深田地質研究所に移行しました」とある。

 研究だけでなく一般向けの公開授業を行ったり、今回の様な一般公開などの広報活動的なイベントも開催する開かれた研究所だ。
 この日、研修ホールでは「化石の日2019スペシャルトークトーク」が開かれ、会議室では、「深田研レクチャー」として「北海道胆振東部で発生した崩壊・地すべり」などが語られていた。私はこちらには参加せず、主として色々な展示を見学した。地学関係の展示物は見たことがないものが殆どだったが、実に面白い。

 写真撮影がOKだったので撮影した化石の写真を最下段に掲示した。
 私が特に興味をもったのがジオ鉄関連の展示だ。ジオ鉄とは、身近で安全な公共機関である鉄道を利用て、誰もが気楽に楽しみながら地質地形などの自然や地球環境を学ぶ活動の呼び名で、ジオは地球を意味する「Geo-」から、鉄は鉄道そのものの意と、鉄道愛好家の愛称「テツ」に因んで命名したらしい。
 深田研を中心に鉄道を愛する地質技術者が集まって普及活動を継続していますとあることから、ジオ鉄活動の創始者も深田研と見て間違いない。
 今回の展示では、
黒部峡谷鉄道に乗車してのジオ鉄・三陸鉄道に乗車してのジオ鉄・紀勢本線に乗車してのジオ鉄の活動内容が、綺麗な写真共に報告されていた。


  

  

  

     



 


音更神社での七五三

2019年10月05日 | 身辺雑記

 3年前、息子夫婦と帯広神社へお参りに行った折には、いずれ、ここで七五三をやりましょうと言っていたので、音更神社の名を聞いた時には不思議な気がしたが、実はこちらが氏神様だった。ともあれ3泊4日の数日間の記憶を辿ることにすると・・・。

 9月28日(土)十勝帯広空港に到着すると、息子と孫が出迎えてくれた。9ヶ月振り会う孫は大きく可愛くなっていた。「オジイチャン、オバアチャンに会うのが楽しみ」と言っていたそうだが、空港では、何故か父親の脚の後ろに隠れて嬉しそうな素振りを見せてくれない。テレていたのだろうか。自宅に着くと漸く懐いて「オジイチャン、遊ぼう」となった。(写真:運動が好きな長女)

 夕食のしゃぶしゃぶ鍋を囲むのは、息子一家4人・ヤヨイちゃんのお父さん・私達夫婦の合計7名。息子夫婦が二人で北海道へ渡った時から11年の歳月が流れていた。
 9月29日(日)、まずは写真館へ行った。一番驚いたのがこの写真撮影だった。行った先はおもちゃ専売店「トイザらス音更店」の中の、子ども写真館「Stadio Alice」だった。昔風の重厚な写真館を想像していただけに、その落差は大きかった。七五三用の写真を撮ってもらうために何組もの親子づれで賑やかなことこの上ない。華やかでもある。撮影に緊張しニコリとしない子どもを、身振り手振りで笑わせその一瞬を撮るのは若い女性たち。保育士兼カメラマンを見事にこなしていて、その奮闘振りに感心した。(写真:写真館での長女)






 我が孫は着替え室に入った途端泣き出した。泣き止むのを長い時間かけて、漸く、ヤヨイちゃんが7歳の時に来た着物に着替えての撮影。最後には笑ってくれました。

 その後音更神社へお参り。お賽銭をあげてのお参りだけに留めて帰ってきた。頂いたパンフレットには「明治33年、伊勢神宮より御分霊を拝受奉安するを創祀とする」旨が書かれていた。開拓民増加に伴い神社は拡大されて行った様子に、北海道らしさが反映されていた。現建物は平成14年に改築とのこと。





 9月30日(月)、早朝散歩に出た。息子たちの住むところは“緑陽台”とあるように高台にある。その台地の東側は低地になっていて、5時過ぎ日の出が見え始めた。今年の元旦に見た風景と同じだった。台地を下っていくと、広大な風景のなかに実に大きな建物3つに出合った。音更図書館と音更文化センターで、もう一つは何だか分からなかった。帰宅して音更町が北海道で一番人口の多い町と知った。それ故の大きな建物だったのかも知れない。


 次女孫はまだ満1歳にはなっていないが、伝い歩きが出来るになっていた。二人の孫ともお土産に持っていったお人形さんを気に入ってくれて良かった。
 これからは年に2回は孫の顔を行こうかと妻と話し合っている。(写真:直立歩行まであと僅かの次女)







 
      お人形さんと遊ぶ孫

  
                  音更図書館

  
       音更文化センター








『文高連だより』に掲載される

2019年10月03日 | 文高連

 一昨日夜、孫の七五三参りを終え北海道から帰京した。その事は次回のブログに廻したい。帰宅すると、文京区高齢者クラブ連合会の機関誌『文高連だより』が届き、その4ページに私が投稿した記事が掲載されていた。そちらから綴ることとする。
 『文高連だより』は最近では年に3回発行され、今年の10月1日号で通算498号となっていた。カラフルな4ページ構成の見事な機関誌だ。高齢者クラブの機関誌としてはなかなかのものだと、文高連の先達のここに至るまでの努力・実績を知ることともなる。
 昨年だったと思うが、編集部の人事が入れ替わり、新編集部は新たな企画を始めていた。この機関誌に投稿してくれそうな人の1・2名のピックアップを各クラブに
要請して来たのだ。我が富士前福寿会では小林会長から(他の方もいたかも知れないが)私にどうかとの話があり、私はOKの返事をしていたところ、今年の6月に具体的に投稿依頼が来た。このシステムの良いところは、いずれ投稿依頼が来るだろうなと予想し心の準備が出来たり、予め原稿を書いておく方ことが出来る点にある。
 
私も依頼が来ればこんなことを書こうと思っていたので、原稿は直ぐに完成し、締め切り7月に問題なく間に合った。その原稿が10月1日号に掲載された訳だ。内容はブログに書いてきたことと大分重複している。「話題の人」とのタイトルだが、話題があって、私がそこに登場した訳ではないだろう。この記事を読んで、あるいは話題となるかも知れないという寸法だ。投稿のお礼の言葉を頂いていたが、発行日10月1日は私の78歳の誕生日と重なり『文高連だより』は良い記念となった。こちらから感謝したい。
 以下最初に498号の私の投稿文。その下に496号の「田町みのり会」の宮原一敏さんの文。