宇佐が選んだ店舗は中古ではあるがカントリー風の洒落た建物で、前のオーナーが大切に管理していた。
70を越えて身体がしんどくなったために引退したのだが、この店に愛着があってなかなか手放せずにいた。
たまたま店を探しに来た宇佐の男気に惚れこんだオーナーが是非にと言ってくれた事もあって、話はとんとん拍子に進んだ。
年はとっても背筋をしゃんと伸ばしている洒落たオーナーをこのまま引退させておく手はないと、宇佐はこのオーナーを看板親爺に採用したのだ。
仕事はテーブルの案内係だが、体調がよければ他にも仕事をしてもらう条件で、時給で働いてもらうことにした。
「かっこいい親爺だろ。 何しろうちの看板だからな。 年はとってもなかなかのもんさ。 」
新しい店を訪ねてきてくれた修に宇佐は自慢げに言った。
「親爺といえば…河原先生はどうなさっておいでかなあ。 」
宇佐は高校時代に思いを馳せた。
数学の担当だった川原は、修や宇佐のよき理解者のひとりと言える人だった。
化学の実験の時、手順を間違えると爆発するぞと言われたそばから爆発させて化学の先生に怒られている修にその理由を訊ねた。
修は爆発させてみないとその威力や現象を理解できないと言った。
それから藤宮学園では危険を防止するため、準備可能な限り実験前に、ビデオでそうした現象を見せてから実験をするようにした。
数学の授業中に生物の先生が血相変えて飛び込んできた。
生物室の前の廊下に水槽の中の青大将を放したというので怒った先生が修を連れに来たのだ。この先生は蛇が大の苦手だった。
修は蛇だってケースの中ばかりじゃ退屈するからちょっと散歩させてやったんだと言う。
犬じゃないんだからと言って河原先生は修に蛇を捕まえるように指示した。
「考えてみれば…おまえは相当の問題児だったぞ。
まあ普段の成績が良かったから先生たちに睨まれずに済んだってとこだ。
修なら許せる…修なら仕方ない…みたいに思われてたからなあ。 」
宇佐はそう言って声を上げて笑った。修も懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
「この間、高等部に行ってきたが、そう言えば先生はおられなかったな。
もう退職されたのかもしれないね…。 」
修はこの前職員室の中にいた先生たちを思い出しながら言った。
修たちの同期生が教師をしているくらいだから職員室も世代交代したのだろう。
学校から知った顔が消えていくのは少なからず寂しいものである。
「今度藤宮へ行ったら、誰かに訊ねてみるよ。 」
そう約束して修は宇佐の店を後にした。
正規の授業が終わって帰り支度をしていた雅人は腕時計をどこかに置き忘れたことに気付いた。
はずしたのは体育の時と昼休みに図書室へ行った時だ。
更衣室のロッカーと図書室のテーブルの上を透視してみた。
時計は図書室…いま誰かが見つけてくれた…。
雅人はその誰かの近くに普通ではない気配を感じ取った。
危険ではないが安全とも言い難い。雅人は急ぎ、図書室へ向かった。
図書室の扉は二重になっているので見えにくいが、どうやら中に居るのは唐島のようだ。唐島の他にも何かがいて唐島はその何かと話をしているようなのだ。
第一の扉をそっと開け、その何かがまだいるのを確認すると、第二の扉のガラス張りの部分から覗き込んだ。
年配の男の後姿が見えた。
雅人はその男の正体を探ろうとしたがうまくいかなかった。
人であることには間違いはない。
しかし、生きているとも死んでいるとも判別がつかないのだ。
雅人はそっと扉を開けた。
唐島が気付いた。
「雅人くん…? 何か…? 」
「時計…腕時計を探しに来ました。 」
雅人は言った。すでに扉を開けた時点で年配の男は消えていた。
「ああ…それなら…ここにあるよ。 」
唐島は時計を差し出した。雅人はそれを受け取ると訊いた。
「いまどなたかここにいませんでした? 」
「え? ああ…河原先生のことだね。 」
河原…? 雅人は変に思った。 河原なんて先生がいたっけか…?
時々中等部の先生たちが利用することもあるから、中等部の先生だろうか…。
「あの…ありがとうございました。 」
雅人は頭を下げた。
「どう致しまして…。 急がないと受験塾に遅れるよ。 」
唐島はそう言って何列かに並んでいる奥の本棚の方へ向かった。
雅人はそっと棚の方を覗いてみたが、あの年配の男は何処にも見当たらなかった。気配さえいつの間にか消えてなくなっていた。
悪夢に魘される自分の声に驚いて修は飛び起きた。
唐島に再会するまで、ここ何年も悪夢なんて見もしなかったのに。
少し神経質になり過ぎている…と修は思った。
あれはもう過去のことで…いまさら思い返しても仕方のないこと…。
笙子が心配そうに修を見上げていた。
「ごめん…起こしてしまったね…。 」
修が再び横たわると笙子が優しく頬を撫でた。
「大丈夫よ…修。 たくさん乗り越えてきたんだから…今度も大丈夫…。
あなたに落ち度なんてなかったのよ。悪い所もなかったの。
泣きたければ泣いて…笑いたければ笑って。怒ってもいいの。我慢してはだめ。
言いたいことがあったら口に出すのよ。 抑えないで。 」
修はそっと笙子に耳打ちした。抑えられません…と。
「もう…馬鹿ね…真面目に言ってんのに…。 いつも冗談でごまかして…。 」
修の笑顔と冗談は曲者だということを笙子は知っていた。誰にも心配をかけたくないとか本心を明かしたくない…などという時にわざと馬鹿なことを言ってみたりするのだ。
夫婦にとって幸いだったのは、アブノーマルなエロ本でゲロゲロ状態の修でも、ノーマルな性生活には思ったより支障がなかったということだ。
笙子が子供の頃から修の精神面を支えてきた結果でもあるが、ガラスの脆さと、それを補修プロテクトする鋼の強さを重ね持つ修の精神的特徴とも言える。
多分今、再会のショックでぼろぼろと壁が崩れかけているところなのだろうが、しばらくすれば、再び、より強い塗料で壁を塗りなおして復活するだろう。
笙子は自分の中に修を迎え入れながらそれを確信していた。
雅人から例の気配の正体は河原という教師らしいと聞いて、修はすぐに輝郷に先生の消息の確認を取った。
輝郷の話では河原先生は二年ほど前に自宅で倒れて以来、今は入院中だという。
輝郷も時々見舞いに行くが、意識がはっきりしている時と、ぼんやりしている時があって、もしかするとこのまま学校には戻れないかもしれないということだった。
宇佐にも連絡を取って一緒に見舞いに行くことにした。
修たちが病院を訪ねたとき、先生は病室のベッドの上にぼんやり座って窓の外を見ていた。
付き添っていた息子さんが取り次いでくれた。
「父さん…教え子さんたちが見舞いに来てくださったよ。 」
そう声をかけると先生は修たちの方を見た。先生は修の顔を見るや否や、にっこり笑っていった。
「修…飯食ったら授業に出るんだぞ。 宇佐…遅刻すんじゃないぞ。 」
修も宇佐も思わず返事をした。
「はい…先生。 」
先生は満足そうに頷きながらにこにこ笑っていた。
「もうじき退院するよ…。 そうしたらまた教室で会えるな。
ここは退屈で…かなわん。 早く学校へ戻りたい…。 」
修は頷いた。宇佐は半べそ状態だった。
先生の中で時が止まってしまった。 修たちを覚えていてくれたのは嬉しいが、先生にとってふたりはまだ高校生のままなのだ。
修たちはできるだけ先生に話をあわせ、先生が困らないように努力した。
生徒を愛し、学校を愛し、学校に帰りたがっている。
奇跡が起きてその望みが叶えられることを修も宇佐も願わずにはいられなかった。
帰り際、先生はふたりのにわか高校生に気をつけてお帰りと言ってくれた。
「早く戻ってきてね。 先生。 待ってるからね。 」
修たちは子どものように先生に手を振った。
心から…。
次回へ
70を越えて身体がしんどくなったために引退したのだが、この店に愛着があってなかなか手放せずにいた。
たまたま店を探しに来た宇佐の男気に惚れこんだオーナーが是非にと言ってくれた事もあって、話はとんとん拍子に進んだ。
年はとっても背筋をしゃんと伸ばしている洒落たオーナーをこのまま引退させておく手はないと、宇佐はこのオーナーを看板親爺に採用したのだ。
仕事はテーブルの案内係だが、体調がよければ他にも仕事をしてもらう条件で、時給で働いてもらうことにした。
「かっこいい親爺だろ。 何しろうちの看板だからな。 年はとってもなかなかのもんさ。 」
新しい店を訪ねてきてくれた修に宇佐は自慢げに言った。
「親爺といえば…河原先生はどうなさっておいでかなあ。 」
宇佐は高校時代に思いを馳せた。
数学の担当だった川原は、修や宇佐のよき理解者のひとりと言える人だった。
化学の実験の時、手順を間違えると爆発するぞと言われたそばから爆発させて化学の先生に怒られている修にその理由を訊ねた。
修は爆発させてみないとその威力や現象を理解できないと言った。
それから藤宮学園では危険を防止するため、準備可能な限り実験前に、ビデオでそうした現象を見せてから実験をするようにした。
数学の授業中に生物の先生が血相変えて飛び込んできた。
生物室の前の廊下に水槽の中の青大将を放したというので怒った先生が修を連れに来たのだ。この先生は蛇が大の苦手だった。
修は蛇だってケースの中ばかりじゃ退屈するからちょっと散歩させてやったんだと言う。
犬じゃないんだからと言って河原先生は修に蛇を捕まえるように指示した。
「考えてみれば…おまえは相当の問題児だったぞ。
まあ普段の成績が良かったから先生たちに睨まれずに済んだってとこだ。
修なら許せる…修なら仕方ない…みたいに思われてたからなあ。 」
宇佐はそう言って声を上げて笑った。修も懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
「この間、高等部に行ってきたが、そう言えば先生はおられなかったな。
もう退職されたのかもしれないね…。 」
修はこの前職員室の中にいた先生たちを思い出しながら言った。
修たちの同期生が教師をしているくらいだから職員室も世代交代したのだろう。
学校から知った顔が消えていくのは少なからず寂しいものである。
「今度藤宮へ行ったら、誰かに訊ねてみるよ。 」
そう約束して修は宇佐の店を後にした。
正規の授業が終わって帰り支度をしていた雅人は腕時計をどこかに置き忘れたことに気付いた。
はずしたのは体育の時と昼休みに図書室へ行った時だ。
更衣室のロッカーと図書室のテーブルの上を透視してみた。
時計は図書室…いま誰かが見つけてくれた…。
雅人はその誰かの近くに普通ではない気配を感じ取った。
危険ではないが安全とも言い難い。雅人は急ぎ、図書室へ向かった。
図書室の扉は二重になっているので見えにくいが、どうやら中に居るのは唐島のようだ。唐島の他にも何かがいて唐島はその何かと話をしているようなのだ。
第一の扉をそっと開け、その何かがまだいるのを確認すると、第二の扉のガラス張りの部分から覗き込んだ。
年配の男の後姿が見えた。
雅人はその男の正体を探ろうとしたがうまくいかなかった。
人であることには間違いはない。
しかし、生きているとも死んでいるとも判別がつかないのだ。
雅人はそっと扉を開けた。
唐島が気付いた。
「雅人くん…? 何か…? 」
「時計…腕時計を探しに来ました。 」
雅人は言った。すでに扉を開けた時点で年配の男は消えていた。
「ああ…それなら…ここにあるよ。 」
唐島は時計を差し出した。雅人はそれを受け取ると訊いた。
「いまどなたかここにいませんでした? 」
「え? ああ…河原先生のことだね。 」
河原…? 雅人は変に思った。 河原なんて先生がいたっけか…?
時々中等部の先生たちが利用することもあるから、中等部の先生だろうか…。
「あの…ありがとうございました。 」
雅人は頭を下げた。
「どう致しまして…。 急がないと受験塾に遅れるよ。 」
唐島はそう言って何列かに並んでいる奥の本棚の方へ向かった。
雅人はそっと棚の方を覗いてみたが、あの年配の男は何処にも見当たらなかった。気配さえいつの間にか消えてなくなっていた。
悪夢に魘される自分の声に驚いて修は飛び起きた。
唐島に再会するまで、ここ何年も悪夢なんて見もしなかったのに。
少し神経質になり過ぎている…と修は思った。
あれはもう過去のことで…いまさら思い返しても仕方のないこと…。
笙子が心配そうに修を見上げていた。
「ごめん…起こしてしまったね…。 」
修が再び横たわると笙子が優しく頬を撫でた。
「大丈夫よ…修。 たくさん乗り越えてきたんだから…今度も大丈夫…。
あなたに落ち度なんてなかったのよ。悪い所もなかったの。
泣きたければ泣いて…笑いたければ笑って。怒ってもいいの。我慢してはだめ。
言いたいことがあったら口に出すのよ。 抑えないで。 」
修はそっと笙子に耳打ちした。抑えられません…と。
「もう…馬鹿ね…真面目に言ってんのに…。 いつも冗談でごまかして…。 」
修の笑顔と冗談は曲者だということを笙子は知っていた。誰にも心配をかけたくないとか本心を明かしたくない…などという時にわざと馬鹿なことを言ってみたりするのだ。
夫婦にとって幸いだったのは、アブノーマルなエロ本でゲロゲロ状態の修でも、ノーマルな性生活には思ったより支障がなかったということだ。
笙子が子供の頃から修の精神面を支えてきた結果でもあるが、ガラスの脆さと、それを補修プロテクトする鋼の強さを重ね持つ修の精神的特徴とも言える。
多分今、再会のショックでぼろぼろと壁が崩れかけているところなのだろうが、しばらくすれば、再び、より強い塗料で壁を塗りなおして復活するだろう。
笙子は自分の中に修を迎え入れながらそれを確信していた。
雅人から例の気配の正体は河原という教師らしいと聞いて、修はすぐに輝郷に先生の消息の確認を取った。
輝郷の話では河原先生は二年ほど前に自宅で倒れて以来、今は入院中だという。
輝郷も時々見舞いに行くが、意識がはっきりしている時と、ぼんやりしている時があって、もしかするとこのまま学校には戻れないかもしれないということだった。
宇佐にも連絡を取って一緒に見舞いに行くことにした。
修たちが病院を訪ねたとき、先生は病室のベッドの上にぼんやり座って窓の外を見ていた。
付き添っていた息子さんが取り次いでくれた。
「父さん…教え子さんたちが見舞いに来てくださったよ。 」
そう声をかけると先生は修たちの方を見た。先生は修の顔を見るや否や、にっこり笑っていった。
「修…飯食ったら授業に出るんだぞ。 宇佐…遅刻すんじゃないぞ。 」
修も宇佐も思わず返事をした。
「はい…先生。 」
先生は満足そうに頷きながらにこにこ笑っていた。
「もうじき退院するよ…。 そうしたらまた教室で会えるな。
ここは退屈で…かなわん。 早く学校へ戻りたい…。 」
修は頷いた。宇佐は半べそ状態だった。
先生の中で時が止まってしまった。 修たちを覚えていてくれたのは嬉しいが、先生にとってふたりはまだ高校生のままなのだ。
修たちはできるだけ先生に話をあわせ、先生が困らないように努力した。
生徒を愛し、学校を愛し、学校に帰りたがっている。
奇跡が起きてその望みが叶えられることを修も宇佐も願わずにはいられなかった。
帰り際、先生はふたりのにわか高校生に気をつけてお帰りと言ってくれた。
「早く戻ってきてね。 先生。 待ってるからね。 」
修たちは子どものように先生に手を振った。
心から…。
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