毎日雨が降り続いて鬱陶しい季節になった。
これまでに何人もの先生たちから修の思い出を聞かされた。
紫峰家の子どもたちが三人まだこの学校にいるとはいえ、先生たちの記憶がこれほど鮮明なのは、やはり修がそれほど印象深い少年だったからだろう。
あの華奢な修がまるで別人になってしまったかのように人々の口から語られる。
豪快で恐れを知らないとか、入学早々に三学年すべての覇権を握ったとか、そんな豪傑像がほとんどだが、時には後遺症かもしれないと思われるような行動もある。
河原先生の言っていた闇の部分が語られるたびに唐島の胸は痛む。
それを察してでもいるかのように、河原先生は唐島の話をよく聞いてくれる。
今は一線を退いて学校の手伝いのようなことをしていると先生は言っておられたが、現役でないというのは残念なことだ。
こんな先生に教えてもらえたら生徒は幸せだろうなといつも唐島は思う。
雨脚があまりに強くなったので、久しぶりにオフィス街の近くにある大通りを歩いていた唐島は少々後悔していた。
研修の帰りに買い物を思い出して寄り道したのだが、急ぎじゃないので何もこんな天気の悪い日にわざわざ来なくてもよかったのだ。
横を行く車が通りしなに水しぶきを引っ掛けていった時には大きな溜息が思わずこぼれた。
ふと目をあげると、通りの向こうから傘を差した男女がこちらへ向かってくるのが見えた。女性の方に見覚えがあった。
「紫峰…さん? 」
思わず声をかけてしまった。女性は驚いたように振り向いた。
「あら…先生。 今お帰りですか? 」
女性は嫣然とした笑みを浮かべて唐島を見つめた。
傍にいた男が何事かと言うようにふたりを見比べた。
「透くんたちの学校の先生よ。 史朗ちゃん。 修の古い知り合いなの。 」
そんなふうに唐島のことを紹介した。
「紫峰さん…少しお伺いしたいことがあるのですが…。 」
唐島は少し迷いながらも笙子にそう言った。笙子は頷いた。
ああそれじゃ先に行っていますと男が言うのを引き止めて笙子は言った。
「史朗ちゃん。 修のことなの。 あなたも聞いておいた方がいいわ。 」
唐島は一瞬えっ?と思ったが断る理由もなかった。
通り沿いの小さな喫茶店に三人は移動した。
注文を取りにきたウェイトレスが行ってしまうと、唐島はおずおずと話し始めた。
「藤宮へ来て以来…いろいろな先生から修くんのことを聞きました。
楽しいうわさばかりで嬉しかったのですが…時折、心配なことを耳にしたので…。 僕のしたことが…修くんに…特にご夫婦に災いするようなことを引き起こしているのではないかとそう…思い悩んでいました。 」
今度は史朗がえっ?と言うような顔をした。
笙子は表情ひとつ変えもせず、唐島の話を聞いていた。
「高校時代に猥褻な本を見せられてひどく嘔吐したことをお聞きになったのね?
確かに…何もないと言えば嘘になりますわ。 興味本位に描かれたその手のものは今でもだめです。 嘔吐はしませんけど…。 」
ええっ?と史朗はまた思った。
「あなたがたった12歳だった修にどんなことをなさったのか知りません。
ただそのために修が今でも苦しんでいるのは事実です。
あなたにお話しする義理はありませんけれど、私どもの閨房に関してはご心配していただかなくて結構ですわ。 」
笙子ははっきりと唐島に言い渡した。唐島は何度も非礼を詫びた。
唐島が本心から修のことを心配していることは笙子にも分かった。
だからと言って許せることではないし今更何なのという気持ちもある。
笙子は史朗を促して喫茶店を後にした。 唐島はずっと詫び続けていた。
「笙子さん。 何なんです? 何があったんですか? 」
訳が分からずに史朗は笙子に訊ねた。笙子はそっと史朗に耳打ちした。
史朗の顔色が変わった。
「そんな…酷い…。 それで…修さんはあんなことを僕に訊いたんだ。 」
この間の夜の修の様子にずっとひっかかるものを感じていた史朗は、ようやくその意味が分かって憤慨した。
「史朗ちゃん。 今の修なら大丈夫だとは思うのだけれど、もし、修が史朗ちゃんにひどいことをしてしまっても許してやってね。
不意に襲ったりしなければ過激な反応はしないと思うわ。 」
「襲いませんてば…もう…。 あれは酒の上での失敗で…。」
笙子はくすっと笑った。
「ごめんね。 史朗ちゃん。 ほんと言うと…あれは私の悪戯なの。 」
「え~。 笙子さん…ひどいなあ。 僕…ほんと恥ずかしかったんですよ。 」
史朗はそう言うと頭を掻いた。笙子は本当にごめんねといいながら笑った。
「我が子同然の透くんのことは修は絶対に恋愛対象にはしないし、隆平くんも問題ないタイプだと思うのだけれど…雅人くんだけは別物だわ。
口は悪いし態度も大きいけれど、本当は心の優しい子だし、修のことを一途に思うあの健気さは私が見ていても胸に迫るものがあるのよ。
修の性格として、あの子が男の子だからという理由だけでは拒めない時が来ると思うの。 今でさえ修の中に揺れ動くものがあるのだから。
だけど今の修では絶対に無理なのよ。
だからね。 史朗ちゃんに先ず免疫を作ってもらいたいの。 」
史朗は眉を顰めた。笙子の気持ちは分からないでもないが、笙子の計画通りに進めていいことではない。
「笙子さん…それは自然の成り行きに任せるしかないことですよ。
僕を利用したことは許しましょう。 悪戯としてね…。
でも…そっちの問題は理詰めで何とかなるってものじゃありません。
あなたに御膳立てをしてもらう必要はないんです。
修さんはちゃんと考えてますよ。
その上で僕を本当に免疫作りに使いたいと思えば僕に直接言うでしょう。
でも修さんは絶対僕を道具に使ったりはしない。
僕のプライドが傷つくし同時に雅人くんのプライドにも傷がつく。
女は…道具に使われても平気なんですか? 」
そう問われて笙子は返答に窮した。史朗が笙子に向かって、これほどはっきり反論したのは初めてだった。
「使うのが平気なのよ。 いいわ。 成り行き任せと行きましょう。
私も修のためにと思って焦りすぎたわ。 」
笙子がそう言うと史朗はにっこり笑って頷いた。
相変わらず雨が降り続くせいか朝から何となく体の調子が良くなかった。
1時間目、2時間目と授業が続いた後、唐島は息が切れるような感じを覚えた。
3時間目が空き時間だったので保健室で少し休んだ。
授業が始まるとそんなことも言っていられないので教室へ向かった。
少し休んだせいかわりと楽になっていた。
「じゃあ…次のところ。 紫峰…読んで。 」
唐島は透に音読させている間に、黒板に必要事項をまとめたものを書き始めた。
書いているうちに音読する声が遠くに聞こえるようになった。
途端、目の前が真っ暗になった。生徒たちの叫び声が遠くに聞こえた。
透は急いで唐島の傍に駆け寄るとクラスメートに手伝わせて唐島を背負った。
保健室へ行く途中、背中で唐島が呟く声が聞こえた。
『修…くん…ごめん…ね。』
透は驚いたが無言で唐島を背負ったまま保健室まで走った。
保健室の先生が急いで救急車を呼び唐島を病院に運ぶことになった。
透が帰って来た時教室は大騒ぎになっていたが騒ぐ気にはなれなかった。
窓の外を見ると唐島が救急車で運ばれる所だった。
何気なく視線を移した時、透は救急車を見送る初老の男の姿を見て愕然とした。
雅人が言っていた図書室の男…河原先生に違いない。
河原先生はしばらくそこに立っていたが、やがて煙のように消えてしまった。
病院にいるはずの河原先生。
その姿を透も確かに見た。
どういうこと…?
透は怖いわけでもないのに肌が粟立つのを感じていた。
次回へ
これまでに何人もの先生たちから修の思い出を聞かされた。
紫峰家の子どもたちが三人まだこの学校にいるとはいえ、先生たちの記憶がこれほど鮮明なのは、やはり修がそれほど印象深い少年だったからだろう。
あの華奢な修がまるで別人になってしまったかのように人々の口から語られる。
豪快で恐れを知らないとか、入学早々に三学年すべての覇権を握ったとか、そんな豪傑像がほとんどだが、時には後遺症かもしれないと思われるような行動もある。
河原先生の言っていた闇の部分が語られるたびに唐島の胸は痛む。
それを察してでもいるかのように、河原先生は唐島の話をよく聞いてくれる。
今は一線を退いて学校の手伝いのようなことをしていると先生は言っておられたが、現役でないというのは残念なことだ。
こんな先生に教えてもらえたら生徒は幸せだろうなといつも唐島は思う。
雨脚があまりに強くなったので、久しぶりにオフィス街の近くにある大通りを歩いていた唐島は少々後悔していた。
研修の帰りに買い物を思い出して寄り道したのだが、急ぎじゃないので何もこんな天気の悪い日にわざわざ来なくてもよかったのだ。
横を行く車が通りしなに水しぶきを引っ掛けていった時には大きな溜息が思わずこぼれた。
ふと目をあげると、通りの向こうから傘を差した男女がこちらへ向かってくるのが見えた。女性の方に見覚えがあった。
「紫峰…さん? 」
思わず声をかけてしまった。女性は驚いたように振り向いた。
「あら…先生。 今お帰りですか? 」
女性は嫣然とした笑みを浮かべて唐島を見つめた。
傍にいた男が何事かと言うようにふたりを見比べた。
「透くんたちの学校の先生よ。 史朗ちゃん。 修の古い知り合いなの。 」
そんなふうに唐島のことを紹介した。
「紫峰さん…少しお伺いしたいことがあるのですが…。 」
唐島は少し迷いながらも笙子にそう言った。笙子は頷いた。
ああそれじゃ先に行っていますと男が言うのを引き止めて笙子は言った。
「史朗ちゃん。 修のことなの。 あなたも聞いておいた方がいいわ。 」
唐島は一瞬えっ?と思ったが断る理由もなかった。
通り沿いの小さな喫茶店に三人は移動した。
注文を取りにきたウェイトレスが行ってしまうと、唐島はおずおずと話し始めた。
「藤宮へ来て以来…いろいろな先生から修くんのことを聞きました。
楽しいうわさばかりで嬉しかったのですが…時折、心配なことを耳にしたので…。 僕のしたことが…修くんに…特にご夫婦に災いするようなことを引き起こしているのではないかとそう…思い悩んでいました。 」
今度は史朗がえっ?と言うような顔をした。
笙子は表情ひとつ変えもせず、唐島の話を聞いていた。
「高校時代に猥褻な本を見せられてひどく嘔吐したことをお聞きになったのね?
確かに…何もないと言えば嘘になりますわ。 興味本位に描かれたその手のものは今でもだめです。 嘔吐はしませんけど…。 」
ええっ?と史朗はまた思った。
「あなたがたった12歳だった修にどんなことをなさったのか知りません。
ただそのために修が今でも苦しんでいるのは事実です。
あなたにお話しする義理はありませんけれど、私どもの閨房に関してはご心配していただかなくて結構ですわ。 」
笙子ははっきりと唐島に言い渡した。唐島は何度も非礼を詫びた。
唐島が本心から修のことを心配していることは笙子にも分かった。
だからと言って許せることではないし今更何なのという気持ちもある。
笙子は史朗を促して喫茶店を後にした。 唐島はずっと詫び続けていた。
「笙子さん。 何なんです? 何があったんですか? 」
訳が分からずに史朗は笙子に訊ねた。笙子はそっと史朗に耳打ちした。
史朗の顔色が変わった。
「そんな…酷い…。 それで…修さんはあんなことを僕に訊いたんだ。 」
この間の夜の修の様子にずっとひっかかるものを感じていた史朗は、ようやくその意味が分かって憤慨した。
「史朗ちゃん。 今の修なら大丈夫だとは思うのだけれど、もし、修が史朗ちゃんにひどいことをしてしまっても許してやってね。
不意に襲ったりしなければ過激な反応はしないと思うわ。 」
「襲いませんてば…もう…。 あれは酒の上での失敗で…。」
笙子はくすっと笑った。
「ごめんね。 史朗ちゃん。 ほんと言うと…あれは私の悪戯なの。 」
「え~。 笙子さん…ひどいなあ。 僕…ほんと恥ずかしかったんですよ。 」
史朗はそう言うと頭を掻いた。笙子は本当にごめんねといいながら笑った。
「我が子同然の透くんのことは修は絶対に恋愛対象にはしないし、隆平くんも問題ないタイプだと思うのだけれど…雅人くんだけは別物だわ。
口は悪いし態度も大きいけれど、本当は心の優しい子だし、修のことを一途に思うあの健気さは私が見ていても胸に迫るものがあるのよ。
修の性格として、あの子が男の子だからという理由だけでは拒めない時が来ると思うの。 今でさえ修の中に揺れ動くものがあるのだから。
だけど今の修では絶対に無理なのよ。
だからね。 史朗ちゃんに先ず免疫を作ってもらいたいの。 」
史朗は眉を顰めた。笙子の気持ちは分からないでもないが、笙子の計画通りに進めていいことではない。
「笙子さん…それは自然の成り行きに任せるしかないことですよ。
僕を利用したことは許しましょう。 悪戯としてね…。
でも…そっちの問題は理詰めで何とかなるってものじゃありません。
あなたに御膳立てをしてもらう必要はないんです。
修さんはちゃんと考えてますよ。
その上で僕を本当に免疫作りに使いたいと思えば僕に直接言うでしょう。
でも修さんは絶対僕を道具に使ったりはしない。
僕のプライドが傷つくし同時に雅人くんのプライドにも傷がつく。
女は…道具に使われても平気なんですか? 」
そう問われて笙子は返答に窮した。史朗が笙子に向かって、これほどはっきり反論したのは初めてだった。
「使うのが平気なのよ。 いいわ。 成り行き任せと行きましょう。
私も修のためにと思って焦りすぎたわ。 」
笙子がそう言うと史朗はにっこり笑って頷いた。
相変わらず雨が降り続くせいか朝から何となく体の調子が良くなかった。
1時間目、2時間目と授業が続いた後、唐島は息が切れるような感じを覚えた。
3時間目が空き時間だったので保健室で少し休んだ。
授業が始まるとそんなことも言っていられないので教室へ向かった。
少し休んだせいかわりと楽になっていた。
「じゃあ…次のところ。 紫峰…読んで。 」
唐島は透に音読させている間に、黒板に必要事項をまとめたものを書き始めた。
書いているうちに音読する声が遠くに聞こえるようになった。
途端、目の前が真っ暗になった。生徒たちの叫び声が遠くに聞こえた。
透は急いで唐島の傍に駆け寄るとクラスメートに手伝わせて唐島を背負った。
保健室へ行く途中、背中で唐島が呟く声が聞こえた。
『修…くん…ごめん…ね。』
透は驚いたが無言で唐島を背負ったまま保健室まで走った。
保健室の先生が急いで救急車を呼び唐島を病院に運ぶことになった。
透が帰って来た時教室は大騒ぎになっていたが騒ぐ気にはなれなかった。
窓の外を見ると唐島が救急車で運ばれる所だった。
何気なく視線を移した時、透は救急車を見送る初老の男の姿を見て愕然とした。
雅人が言っていた図書室の男…河原先生に違いない。
河原先生はしばらくそこに立っていたが、やがて煙のように消えてしまった。
病院にいるはずの河原先生。
その姿を透も確かに見た。
どういうこと…?
透は怖いわけでもないのに肌が粟立つのを感じていた。
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