寝室に射し込む光の中にノエルが居る。
ノエルは今…半分眠ったような状態であり、あまりその状態が長く続くと体力を一気に消耗してしまう。
太極との会話はノエルの体調を考慮した上で行わなければならない。
あの大学の二階の端の講義室の陽だまりの中から太極が対話の場所を変えたのは、ノエルが西沢の部屋で過ごす時間が増えたことによるのだろう。
太極はなぜか西沢と対話することを好んだ。
寝室の籐のソファが気に入ってるノエルが子猫のようにそこにちょこんと座っている時などにそっとノエルの中に降りてくる。
別に難しい話をするわけではない。
天気のこと…空気のこと…水のこと…日常生活の中で目にすること…耳にすること…感じること…思うこと…。
西沢はまるで小学生にでも戻ったような感覚で飾ることなく話をする。
太極はこの世界のすべてであり西沢もまた太極の中の要素だから別に何も言わなくても通じてしまう筈なのに…太極はわざわざ自分の中の一要素に話しかける。
人間が自分自身の心に問いかける姿にも似ている。
しばらく西沢との対話を楽しんだ後…気に楽しむという表現が当て嵌まるならばだが…静かにノエルから離れていく。
気との対話があまりにのんびりとしているために西沢の方がついついまどろんでしまう時もある。
太極はうつらうつらしている西沢を穏やかに温かく包み込み…優しい眠りの世界へと誘った後…静かに去っていく。
太極が気配を消してすぐにノエルは目を覚ました。
西沢がベッドの上で寝息を立てているのを見て、ノエルはそっと肌掛けを掛けてやり、自分も西沢の隣に潜り込んだ。
次に目を覚ましたのは陽が傾きかけた頃で西沢はとうに起きて仕事をしていた。
チラッと時計を見たノエルは、もうじき亮と交代の時間だ…寝過ごさなくてよかった…と思った。
西沢に行ってきますと声をかけ、マンションを飛び出した。
外はまだじりじりと暑く、地面のアスファルトが焼けるようで靴底から熱が伝わってくる。
駅前の喫茶店の悦子が店の前で遣り水をしていたが、庭土と違ってすぐに干上がってしまった。
「あらノエル…バイトこれから? 」
悦子は笑窪のある可愛い顔をあげてノエルを見た。
「うん…今日は遅番…。 」
ちょっと気恥ずかしそうにノエルは頷いた。
「チョコレート買っちゃった。 あの亮くん…意外と格好よかったねぇ。
ノエルはすっごく可愛かった…きっとそのうち追っかけが出てくるよ。
覚悟しといた方がいいよ~。 」
冗談っぽく茶化しながら悦子は笑った。
愛想笑いで手を振ってその場を離れたがノエルは内心複雑だった。
ノエルへの評価は可愛い…綺麗…女の子みたい…で、亮への評価は但し書きに意外と…が付いたとしても格好いいとか…いい身体だとか…。
ノエルとしては但し書きが付こうと何だろうと可愛いよりは格好いいの方が嬉しいし、綺麗よりは逞しいと言われたい。
だけど現実は…ノエルは生まれつき華奢で小柄…いくら喧嘩が強くても…到底…亮のような体格は望めない。
バックルームでエプロンを着けながら鏡を見る…。
悦ちゃんもきっと…亮みたく逞しい方が好みだろうなぁ…。
「何してんの? 」
鏡を睨みつけているノエルを見て、亮が不思議そうに覗き込んだ。
いや…うっかり寝ちゃったもんだから寝癖がさぁ…とノエルは髪の毛をつまんだ。
「大丈夫なんともなってないよ…。 んじゃ…また後で…。 」
ノエルが仕事に出ようとするところを追い越して亮は先に歩いて行った。
乱れた本の列を整えながらノエルは、扉を出ようとしているプロバスケの選手みたいな亮の後姿をチラッと見た。
亮が出て行った後のガラスの扉に映る自分の姿を目にして、やるせない溜息が思わず漏れた。
緊迫した音響が絶えず耳と脳を刺激して嫌でも盛り上がってくる恐怖ものRPG攻略…可愛い女の子がとんでもない殺人鬼たちに狙われて逃げ回りながらも、謎を解決してそいつ等をやっつけていくストーリー…休み前に借りたのがまだ攻略できていない。
「うわっ~きもっ! こいつマジきも~っ! 」
交代でプレイしながら陰惨な場面や、見るからに不快な登場人物に思わず声をあげる…こんなんいくつも持ってる店長って結構おたくかも…とか思いながら…。
あ…いけねぇ…死んだ…GAME OVER…。
しまったぁ…と言いながらノエルは仰向けにひっくり返った。
亮は笑いながらコントローラーを受け取り、CONTINUEを選択する。
ちょ~悔しい…と何時までもごろごろ転がってるノエルを見て、よ~し…ちょっと脅かしてやろうくらいの軽い気持ちでノエルに覆い被さった。
「やだ! やだ! やだ! 」
ノエルは真っ青になり駄々をこねる子供のように手足をばたばたさせて思いっきり抵抗した。
いつもなら亮の仕掛ける悪戯など軽く笑い飛ばすノエルがこれほど激しい反応を見せたのは初めてで、脅かすつもりだった亮の方が少なからず驚いた。
「冗談だってば…ごめん…。 」
ノエルは答えずそっぽを向いていた。
怒っているような泣いているような複雑な顔をして…。
気まずい空気を振り払うかのように亮は立ち上がって、風呂行ってくる…と部屋を出て行った。
亮が行ってしまうとノエルは起き上がった。
分かってよ…亮…。
悔しいのか悲しいのか分からないけれど…涙がこぼれた。
僕…女じゃ…ない…。
頭からシャワーの湯を浴びながら亮は後悔した。
やっぱり…だめだよな…いつまでも曖昧なことしてちゃ…。
ノエルは男の子だ…女にはなれない…。
何とか思い切らなきゃ…ノエルは友だち…友だちだって頭に叩き込んで…さ。
そうじゃないと…何度もノエルの心を傷つけることになる。
僕がノエルを苦しめちゃいけない…支えてやらなきゃいけないんだから…。
亮…と風呂場の扉の向こうからノエルが恐る恐る声をかけた…。
あの時と同じだ…。 僕を怒らせないように気を使っている…。
ノエルはひとりぼっちになりたくないから…嫌な思いをしても僕と離れたくはないんだ…。
入ってもいい…一緒に…? いいよ…と亮は答えた。
亮の様子を窺いながらノエルは浴室に入ってきた。
どうやら亮は怒ってはいないようなので少しだけほっとしたようだった。
時折亮の顔色を窺うようにチラッチラッと盗み見しながらノエルは頭を洗い、身体を洗い…亮が黙ったままなのでどうしていいか分からないようだった。
ノエルが湯船に浸かると入れ替わりに亮が立ち上がり、ノエルの頭をくしゃくしゃっと撫でて…先に出るよ…と声をかけた。
ノエルは消え入りそうな声でうん…と頷いた。
あんなに好きなクッションの海なのに今夜は見向きもせずにベッドの肌掛けの中に潜り込んだ。
背中を向けたままの亮に身を寄せるようにして…。
亮がこちらを向いてくれないと分かるとどうすることもできず反対側を向いた。
どうしよう…怒らせちゃった…ちょっとだけ我慢すれば済んだことなのに…。
亮のこと大好きだから…我慢ってほどじゃなかったのに…。
少しだけ女の子の代わりしてあげればよかっただけなのに…。
「なあ…ノエル…。 おまえ…我慢なんかするなよ…。 」
不意に亮が声をかけた。 えっ?…とノエルは聞き返した。
好きだよ…ノエル…でも忘れなきゃ…ノエルは僕のものじゃない…これ以上つらい想いさせたらいけないんだ…。
「無理なこと言ってるのは僕の方なんだ…。おまえがあんまり優しいから…さ。
恋人でもないのに…いい気になってた…。 悪いのは僕…。
男なんだから本当は嫌に決まってるよな…。
いくら身体的に可能でも…心が受け付けないだろうに…ひどいことしちゃった。
ほんとごめんな…。 」
ノエルは振り返って不思議そうに亮を見た。
亮は何となく悲しげな笑みを浮かべ、ノエルのことをどうにかして諦めようとしているようだった。
「我慢なんかしない…。 僕…これからは嫌な時は嫌だって言うから…。
いいよ…亮…亮が本物の恋人を見つけるまで…亮が僕を必要としなくなるまで…代わりをしててあげるよ…。
いつか…自然に僕のことなんかただの友達って思えるようになる。
素敵な恋人を見つけた時にはね…。 」
その時には…またひとりになるのだろうか…。
亮の心がその女性に移った瞬間から…誰からも必要とされないノエルに逆戻り…。
いいんだ…それでも…こんな身体でも亮って子が心底大切に考えてくれたって…そういう想い出は残るもの…。
想い出だけは…ずっと…消えない…。
僕がもし手術を受けて…女性の部分をすべて取り除いてしまう時に…この身体についての悪い記憶だけが残らないように…亮が愛してくれたという優しい記憶を処分されるその器官への最大のご褒美にしてあげよう…。
だって生まれてからずっと一緒に生きてきた僕の半身なんだから…嫌な想い出だけで終わらせたくはないでしょう…?
次回へ
ノエルは今…半分眠ったような状態であり、あまりその状態が長く続くと体力を一気に消耗してしまう。
太極との会話はノエルの体調を考慮した上で行わなければならない。
あの大学の二階の端の講義室の陽だまりの中から太極が対話の場所を変えたのは、ノエルが西沢の部屋で過ごす時間が増えたことによるのだろう。
太極はなぜか西沢と対話することを好んだ。
寝室の籐のソファが気に入ってるノエルが子猫のようにそこにちょこんと座っている時などにそっとノエルの中に降りてくる。
別に難しい話をするわけではない。
天気のこと…空気のこと…水のこと…日常生活の中で目にすること…耳にすること…感じること…思うこと…。
西沢はまるで小学生にでも戻ったような感覚で飾ることなく話をする。
太極はこの世界のすべてであり西沢もまた太極の中の要素だから別に何も言わなくても通じてしまう筈なのに…太極はわざわざ自分の中の一要素に話しかける。
人間が自分自身の心に問いかける姿にも似ている。
しばらく西沢との対話を楽しんだ後…気に楽しむという表現が当て嵌まるならばだが…静かにノエルから離れていく。
気との対話があまりにのんびりとしているために西沢の方がついついまどろんでしまう時もある。
太極はうつらうつらしている西沢を穏やかに温かく包み込み…優しい眠りの世界へと誘った後…静かに去っていく。
太極が気配を消してすぐにノエルは目を覚ました。
西沢がベッドの上で寝息を立てているのを見て、ノエルはそっと肌掛けを掛けてやり、自分も西沢の隣に潜り込んだ。
次に目を覚ましたのは陽が傾きかけた頃で西沢はとうに起きて仕事をしていた。
チラッと時計を見たノエルは、もうじき亮と交代の時間だ…寝過ごさなくてよかった…と思った。
西沢に行ってきますと声をかけ、マンションを飛び出した。
外はまだじりじりと暑く、地面のアスファルトが焼けるようで靴底から熱が伝わってくる。
駅前の喫茶店の悦子が店の前で遣り水をしていたが、庭土と違ってすぐに干上がってしまった。
「あらノエル…バイトこれから? 」
悦子は笑窪のある可愛い顔をあげてノエルを見た。
「うん…今日は遅番…。 」
ちょっと気恥ずかしそうにノエルは頷いた。
「チョコレート買っちゃった。 あの亮くん…意外と格好よかったねぇ。
ノエルはすっごく可愛かった…きっとそのうち追っかけが出てくるよ。
覚悟しといた方がいいよ~。 」
冗談っぽく茶化しながら悦子は笑った。
愛想笑いで手を振ってその場を離れたがノエルは内心複雑だった。
ノエルへの評価は可愛い…綺麗…女の子みたい…で、亮への評価は但し書きに意外と…が付いたとしても格好いいとか…いい身体だとか…。
ノエルとしては但し書きが付こうと何だろうと可愛いよりは格好いいの方が嬉しいし、綺麗よりは逞しいと言われたい。
だけど現実は…ノエルは生まれつき華奢で小柄…いくら喧嘩が強くても…到底…亮のような体格は望めない。
バックルームでエプロンを着けながら鏡を見る…。
悦ちゃんもきっと…亮みたく逞しい方が好みだろうなぁ…。
「何してんの? 」
鏡を睨みつけているノエルを見て、亮が不思議そうに覗き込んだ。
いや…うっかり寝ちゃったもんだから寝癖がさぁ…とノエルは髪の毛をつまんだ。
「大丈夫なんともなってないよ…。 んじゃ…また後で…。 」
ノエルが仕事に出ようとするところを追い越して亮は先に歩いて行った。
乱れた本の列を整えながらノエルは、扉を出ようとしているプロバスケの選手みたいな亮の後姿をチラッと見た。
亮が出て行った後のガラスの扉に映る自分の姿を目にして、やるせない溜息が思わず漏れた。
緊迫した音響が絶えず耳と脳を刺激して嫌でも盛り上がってくる恐怖ものRPG攻略…可愛い女の子がとんでもない殺人鬼たちに狙われて逃げ回りながらも、謎を解決してそいつ等をやっつけていくストーリー…休み前に借りたのがまだ攻略できていない。
「うわっ~きもっ! こいつマジきも~っ! 」
交代でプレイしながら陰惨な場面や、見るからに不快な登場人物に思わず声をあげる…こんなんいくつも持ってる店長って結構おたくかも…とか思いながら…。
あ…いけねぇ…死んだ…GAME OVER…。
しまったぁ…と言いながらノエルは仰向けにひっくり返った。
亮は笑いながらコントローラーを受け取り、CONTINUEを選択する。
ちょ~悔しい…と何時までもごろごろ転がってるノエルを見て、よ~し…ちょっと脅かしてやろうくらいの軽い気持ちでノエルに覆い被さった。
「やだ! やだ! やだ! 」
ノエルは真っ青になり駄々をこねる子供のように手足をばたばたさせて思いっきり抵抗した。
いつもなら亮の仕掛ける悪戯など軽く笑い飛ばすノエルがこれほど激しい反応を見せたのは初めてで、脅かすつもりだった亮の方が少なからず驚いた。
「冗談だってば…ごめん…。 」
ノエルは答えずそっぽを向いていた。
怒っているような泣いているような複雑な顔をして…。
気まずい空気を振り払うかのように亮は立ち上がって、風呂行ってくる…と部屋を出て行った。
亮が行ってしまうとノエルは起き上がった。
分かってよ…亮…。
悔しいのか悲しいのか分からないけれど…涙がこぼれた。
僕…女じゃ…ない…。
頭からシャワーの湯を浴びながら亮は後悔した。
やっぱり…だめだよな…いつまでも曖昧なことしてちゃ…。
ノエルは男の子だ…女にはなれない…。
何とか思い切らなきゃ…ノエルは友だち…友だちだって頭に叩き込んで…さ。
そうじゃないと…何度もノエルの心を傷つけることになる。
僕がノエルを苦しめちゃいけない…支えてやらなきゃいけないんだから…。
亮…と風呂場の扉の向こうからノエルが恐る恐る声をかけた…。
あの時と同じだ…。 僕を怒らせないように気を使っている…。
ノエルはひとりぼっちになりたくないから…嫌な思いをしても僕と離れたくはないんだ…。
入ってもいい…一緒に…? いいよ…と亮は答えた。
亮の様子を窺いながらノエルは浴室に入ってきた。
どうやら亮は怒ってはいないようなので少しだけほっとしたようだった。
時折亮の顔色を窺うようにチラッチラッと盗み見しながらノエルは頭を洗い、身体を洗い…亮が黙ったままなのでどうしていいか分からないようだった。
ノエルが湯船に浸かると入れ替わりに亮が立ち上がり、ノエルの頭をくしゃくしゃっと撫でて…先に出るよ…と声をかけた。
ノエルは消え入りそうな声でうん…と頷いた。
あんなに好きなクッションの海なのに今夜は見向きもせずにベッドの肌掛けの中に潜り込んだ。
背中を向けたままの亮に身を寄せるようにして…。
亮がこちらを向いてくれないと分かるとどうすることもできず反対側を向いた。
どうしよう…怒らせちゃった…ちょっとだけ我慢すれば済んだことなのに…。
亮のこと大好きだから…我慢ってほどじゃなかったのに…。
少しだけ女の子の代わりしてあげればよかっただけなのに…。
「なあ…ノエル…。 おまえ…我慢なんかするなよ…。 」
不意に亮が声をかけた。 えっ?…とノエルは聞き返した。
好きだよ…ノエル…でも忘れなきゃ…ノエルは僕のものじゃない…これ以上つらい想いさせたらいけないんだ…。
「無理なこと言ってるのは僕の方なんだ…。おまえがあんまり優しいから…さ。
恋人でもないのに…いい気になってた…。 悪いのは僕…。
男なんだから本当は嫌に決まってるよな…。
いくら身体的に可能でも…心が受け付けないだろうに…ひどいことしちゃった。
ほんとごめんな…。 」
ノエルは振り返って不思議そうに亮を見た。
亮は何となく悲しげな笑みを浮かべ、ノエルのことをどうにかして諦めようとしているようだった。
「我慢なんかしない…。 僕…これからは嫌な時は嫌だって言うから…。
いいよ…亮…亮が本物の恋人を見つけるまで…亮が僕を必要としなくなるまで…代わりをしててあげるよ…。
いつか…自然に僕のことなんかただの友達って思えるようになる。
素敵な恋人を見つけた時にはね…。 」
その時には…またひとりになるのだろうか…。
亮の心がその女性に移った瞬間から…誰からも必要とされないノエルに逆戻り…。
いいんだ…それでも…こんな身体でも亮って子が心底大切に考えてくれたって…そういう想い出は残るもの…。
想い出だけは…ずっと…消えない…。
僕がもし手術を受けて…女性の部分をすべて取り除いてしまう時に…この身体についての悪い記憶だけが残らないように…亮が愛してくれたという優しい記憶を処分されるその器官への最大のご褒美にしてあげよう…。
だって生まれてからずっと一緒に生きてきた僕の半身なんだから…嫌な想い出だけで終わらせたくはないでしょう…?
次回へ