しばらく休みたい…と西沢が連絡してきたのは秋に入ってすぐのことだった。
大きな仕事を終えたばかりで丁度切りのいい時期ではあった。
分かりました先生…充電中ということでお得意さんたちには連絡しておきます。
西沢が仕事をしてもしなくても経済的に困ることのない相庭は気楽にそう答えた。
西沢からの電話が切れると相庭はすぐに玲人(れいじ)を呼んだ。
「木之内…紫苑が動く…。 もはや…西沢家の封印など何の意味も持たぬ。
紫苑自らが封印を解いた…。
玲人…決して目を離すなよ…木之内にとっては存続か断絶かの運命の分かれ道。
木之内は傍流と言われているが…紫苑には本流の血が流れている。
この血を絶やしてはならない…。
それに…紫苑はこれまでにも…誰にも語ることなく秘かに務めを果たしてきた。
誰に指示されることもなく御使者として為すべきことを為してきた。
どの御使者よりもよく働いてくれたお蔭で…有り難いことにこの地域だけは騒ぎが小さくて済んでいる。
それだけでも報いられるべきだ…。 」
相庭は半ば誇らしげにそう話した。
分かりました…と玲人は深く頷いた。
「この頃では紅村旭や花木桂とも連携して動いているようです。
西沢、滝川、島田、宮原、木之内…の他にも同地区のめぼしい一族はみな御使者に救われただけでなく、御使者を中心に協調・協同関係を結んでいます。
また…国内の主だった家門に与えた影響は非常に大きいものがあります。
裁きの一族について馴染みのない家門にも活動範囲の広い滝川を通じて御使者に協力せよとの情報が伝わり、全国に散らばっている御使者の助けになっています。」
玲人の話を聞きながら相庭は紫苑との長い歳月を振り返った。
紫苑が誕生しようとしている時、如何なる不幸が重なってか木之内では次々と親族が亡くなり、残ったのは有の家族だけだった。
歴史ある木之内の存続を危ぶむ声が長老衆から上がり、せめてその血だけでも存続させよとの使命を帯びて相庭は単身、間もなく木之内有の血を引く孫が誕生することになっている西沢厳の懐に入った。
生まれてくる嬰児の護衛というだけではなく、他家の手に渡ってしまったその血が誤って暴走しないように見張るためでもある。
以来…ずっと紫苑の守り役を務めてきた。
我が子以上に心砕いて…。
紫苑はなんと思っているかは知らんが…俺にとっちゃ息子も同然…それ以上の存在かも知れんて…。
「玲人…紫苑を死なせるなよ…。 おまえにとっても弟みたいなもんだ…。」
相庭がそう言うと…分かってますよ…と言わんばかりににたっと笑って、玲人はその場から立ち去った。
有さんよ…あんたが立場上紫苑のために動いてやれない分…俺が代わって動いてやる…それが俺の償いだ…。
少なくとも俺や玲人が生きている限りは…絶対…木之内を終わらせない…。
秋だというのに異様に暑い。まるでまだ八月が続いてでもいるような陽気だ。
夕暮れに虫の音が聞こえだしたことだけが辛うじて秋だな…と思わせる。
してみると…虫は人間よりも季節に敏感だということか…。
亮もノエルも今夜は早く帰ってきたとみえて、ふたりの楽しげな笑い声が玄関先まで響いてくる。
邪魔をしては悪いかな…と思いつつも有はいつものように幾つかの土産物の入った袋を手に居間の扉を開けた。
「あ…亮のお父さん…お帰りなさい…。 」
ノエルがにこにこと笑いながら飛んできた。
有はただいま…と答えながら空いている方の手でそっとノエルのお腹に触れた。
「うん…良好だね…。 健康そのもの…。 」
そう言いながらノエルに袋を渡した。
有難う…と袋を受け取って亮のところへ戻った。
わっ…これ北海道のチョコ…中国のお茶もあるよ…えっこれシンガポールのだ。
お父さん…あっちこっち旅行してたの…?
ノエルは屈託なくそんなことを聞く…。
仕事なんだよ…ノエル…俺の仕事はね…あちらこちら飛び回って企業に必要な情報を収集したり提供したりすることなんだ…。 そういう会社の社員なわけ…。
有は表向きの自分の仕事内容を話した。
「そんな話初めて聞いた…。 」
亮が呆れたように言った。
この齢になるまで親の仕事も知らずにいたんだ…。
それじゃあ…あのいろんな国のお土産は親父が買ったものだったのかなぁ…。
…な…わけないか…彼女が居るのは事実なんだから…。
「まあまあ…忙しく働いておるんですよ…これでも…。 」
そう言いながらどっとソファに腰を下ろした。
はいっ…お父さん…とノエルがコーヒーを淹れて渡してくれた。
有難う…と受け取りながら有は嬉しそうに微笑んだ。
少し前までは口を利くことすらなかった亮と僅かずつではあるが会話ができるようになってきた。
紫苑とノエルのお蔭だな…。
失われた時を取り戻すことはできないが…これからを築くことはできる…。
紫苑と同じように指令を受けたのは卒業の年だった。
就職活動をしていた有のもとへ受けてもいない大企業から採用通知が届いたのだ。
何かの間違いだと思った。
その企業へ連絡を取ってみると実際に受験したことになっていて、指定日に来社するようにとの指示があった。
指示に従って企業を訪れると特別な部署に連れて行かれ、そこで初めてその採用そのものが指令であることが分かった。
以来…ずっとその部署で働き続けている。
今は重職についているから自ら飛び回ることも少なくなったが…当時は…心には紫苑のことがある上に、身体は絶え間なく仕事で旅から旅の生活を強いられ、妻や亮の相手をする時間も思いやる気持ちの余裕も無く…とうとう家庭崩壊を招いてしまった。
それもこれも言い訳かも知れんが…な…と有は胸の内で苦笑した。
もし…亮の母親が同族の能力者だったら…もっと話も通じただろうし…裏のお務めのことも理解して貰えたかも知れないが…亮の母親は普通の女性で、眷族についての話はひと言も口に出すことができなかった。
両親がなぜ普通の女性を選んで自分に勧めたのかは謎だが…今となってはそういう運命だったのかもしれないとも思う。
亮も俺の血を引いている。 何れかは指令を受ける可能性はある…。
できる限り…亮の力を隠し通そうと考えた時もあった。
亮の力が外に漏れれば…必ず指令が来る…。
木之内がもはや断絶に近い状態にある時に、敢えて亮を危険な目に遭わせたり、つらい思いをさせる必要が何処にある…そう考えてのことだった。
有の弟稔と妹ミサは…亮は知らないことだが…有の実母が早世したため後妻に入った叔母の連れ子で有にとってはいとこにあたる。
親族結婚のために木之内の血はどこかで引いてはいるものの、裁きの一族の血は引いていない。
木之内で本流の血を引くのは今となっては有、紫苑、亮の三人だけになってしまっている。
木之内家としては稔やミサの血を引いていれば成り立つわけだが、本流の血を引くという暗黙の権威は失われる。
有が思い直したのは…この先何事か起きた場合に、血の断絶によって木之内という後ろ楯を失った亮が、たったひとりで動くことになれば余計に危険だ…と感じたからだった。
少なくとも裁きの一族の目が多少なりと亮に向けられていれば、万が一の場合にはその護りを受けることもできる。
非情な指令を送りつけてもくるが同族を見殺しにはしない一族だから…。
ノエルがマーライオンの菓子箱を開けた。
はい…と有に差し出す。
有が中の焼き菓子をひとつ取るとにっこり笑って亮にも渡す。
まるで女の子のような優しい仕草だ…。
けれどそれは瞬時のこと…次の瞬間にはノエルは荒々しい動きを見せる。
戯れに格闘技の真似事などすると身体は小さいのに身のこなしが良く、亮より格段に強い。
参った…と音を上げる亮をケラケラと笑って擽ったりしている。
この不思議な男の子が家に居るお蔭で…有はこの頃では時折帰ってくるこの場所を確かに家と感じ、亮との生活の場を家庭と捉えることができるようになってきていた。
そのことから言えば、居候ノエルはすでに有と亮にとって欠くべからざる家族になっているのかもしれない。
それでも何時かは…自分の本当の居場所へと戻っていくのだろう…。
望んではいけないことだが…ノエルが完全な女の子であったなら…亮の嫁さんに迎えることもできるのになぁ…などということまでつい考えてしまう。
馬鹿げているとは思いつつも…。
笑い転げている若いふたりを見つめながら、有はひとり過去へ未来へと思いを馳せていた…。
次回へ
大きな仕事を終えたばかりで丁度切りのいい時期ではあった。
分かりました先生…充電中ということでお得意さんたちには連絡しておきます。
西沢が仕事をしてもしなくても経済的に困ることのない相庭は気楽にそう答えた。
西沢からの電話が切れると相庭はすぐに玲人(れいじ)を呼んだ。
「木之内…紫苑が動く…。 もはや…西沢家の封印など何の意味も持たぬ。
紫苑自らが封印を解いた…。
玲人…決して目を離すなよ…木之内にとっては存続か断絶かの運命の分かれ道。
木之内は傍流と言われているが…紫苑には本流の血が流れている。
この血を絶やしてはならない…。
それに…紫苑はこれまでにも…誰にも語ることなく秘かに務めを果たしてきた。
誰に指示されることもなく御使者として為すべきことを為してきた。
どの御使者よりもよく働いてくれたお蔭で…有り難いことにこの地域だけは騒ぎが小さくて済んでいる。
それだけでも報いられるべきだ…。 」
相庭は半ば誇らしげにそう話した。
分かりました…と玲人は深く頷いた。
「この頃では紅村旭や花木桂とも連携して動いているようです。
西沢、滝川、島田、宮原、木之内…の他にも同地区のめぼしい一族はみな御使者に救われただけでなく、御使者を中心に協調・協同関係を結んでいます。
また…国内の主だった家門に与えた影響は非常に大きいものがあります。
裁きの一族について馴染みのない家門にも活動範囲の広い滝川を通じて御使者に協力せよとの情報が伝わり、全国に散らばっている御使者の助けになっています。」
玲人の話を聞きながら相庭は紫苑との長い歳月を振り返った。
紫苑が誕生しようとしている時、如何なる不幸が重なってか木之内では次々と親族が亡くなり、残ったのは有の家族だけだった。
歴史ある木之内の存続を危ぶむ声が長老衆から上がり、せめてその血だけでも存続させよとの使命を帯びて相庭は単身、間もなく木之内有の血を引く孫が誕生することになっている西沢厳の懐に入った。
生まれてくる嬰児の護衛というだけではなく、他家の手に渡ってしまったその血が誤って暴走しないように見張るためでもある。
以来…ずっと紫苑の守り役を務めてきた。
我が子以上に心砕いて…。
紫苑はなんと思っているかは知らんが…俺にとっちゃ息子も同然…それ以上の存在かも知れんて…。
「玲人…紫苑を死なせるなよ…。 おまえにとっても弟みたいなもんだ…。」
相庭がそう言うと…分かってますよ…と言わんばかりににたっと笑って、玲人はその場から立ち去った。
有さんよ…あんたが立場上紫苑のために動いてやれない分…俺が代わって動いてやる…それが俺の償いだ…。
少なくとも俺や玲人が生きている限りは…絶対…木之内を終わらせない…。
秋だというのに異様に暑い。まるでまだ八月が続いてでもいるような陽気だ。
夕暮れに虫の音が聞こえだしたことだけが辛うじて秋だな…と思わせる。
してみると…虫は人間よりも季節に敏感だということか…。
亮もノエルも今夜は早く帰ってきたとみえて、ふたりの楽しげな笑い声が玄関先まで響いてくる。
邪魔をしては悪いかな…と思いつつも有はいつものように幾つかの土産物の入った袋を手に居間の扉を開けた。
「あ…亮のお父さん…お帰りなさい…。 」
ノエルがにこにこと笑いながら飛んできた。
有はただいま…と答えながら空いている方の手でそっとノエルのお腹に触れた。
「うん…良好だね…。 健康そのもの…。 」
そう言いながらノエルに袋を渡した。
有難う…と袋を受け取って亮のところへ戻った。
わっ…これ北海道のチョコ…中国のお茶もあるよ…えっこれシンガポールのだ。
お父さん…あっちこっち旅行してたの…?
ノエルは屈託なくそんなことを聞く…。
仕事なんだよ…ノエル…俺の仕事はね…あちらこちら飛び回って企業に必要な情報を収集したり提供したりすることなんだ…。 そういう会社の社員なわけ…。
有は表向きの自分の仕事内容を話した。
「そんな話初めて聞いた…。 」
亮が呆れたように言った。
この齢になるまで親の仕事も知らずにいたんだ…。
それじゃあ…あのいろんな国のお土産は親父が買ったものだったのかなぁ…。
…な…わけないか…彼女が居るのは事実なんだから…。
「まあまあ…忙しく働いておるんですよ…これでも…。 」
そう言いながらどっとソファに腰を下ろした。
はいっ…お父さん…とノエルがコーヒーを淹れて渡してくれた。
有難う…と受け取りながら有は嬉しそうに微笑んだ。
少し前までは口を利くことすらなかった亮と僅かずつではあるが会話ができるようになってきた。
紫苑とノエルのお蔭だな…。
失われた時を取り戻すことはできないが…これからを築くことはできる…。
紫苑と同じように指令を受けたのは卒業の年だった。
就職活動をしていた有のもとへ受けてもいない大企業から採用通知が届いたのだ。
何かの間違いだと思った。
その企業へ連絡を取ってみると実際に受験したことになっていて、指定日に来社するようにとの指示があった。
指示に従って企業を訪れると特別な部署に連れて行かれ、そこで初めてその採用そのものが指令であることが分かった。
以来…ずっとその部署で働き続けている。
今は重職についているから自ら飛び回ることも少なくなったが…当時は…心には紫苑のことがある上に、身体は絶え間なく仕事で旅から旅の生活を強いられ、妻や亮の相手をする時間も思いやる気持ちの余裕も無く…とうとう家庭崩壊を招いてしまった。
それもこれも言い訳かも知れんが…な…と有は胸の内で苦笑した。
もし…亮の母親が同族の能力者だったら…もっと話も通じただろうし…裏のお務めのことも理解して貰えたかも知れないが…亮の母親は普通の女性で、眷族についての話はひと言も口に出すことができなかった。
両親がなぜ普通の女性を選んで自分に勧めたのかは謎だが…今となってはそういう運命だったのかもしれないとも思う。
亮も俺の血を引いている。 何れかは指令を受ける可能性はある…。
できる限り…亮の力を隠し通そうと考えた時もあった。
亮の力が外に漏れれば…必ず指令が来る…。
木之内がもはや断絶に近い状態にある時に、敢えて亮を危険な目に遭わせたり、つらい思いをさせる必要が何処にある…そう考えてのことだった。
有の弟稔と妹ミサは…亮は知らないことだが…有の実母が早世したため後妻に入った叔母の連れ子で有にとってはいとこにあたる。
親族結婚のために木之内の血はどこかで引いてはいるものの、裁きの一族の血は引いていない。
木之内で本流の血を引くのは今となっては有、紫苑、亮の三人だけになってしまっている。
木之内家としては稔やミサの血を引いていれば成り立つわけだが、本流の血を引くという暗黙の権威は失われる。
有が思い直したのは…この先何事か起きた場合に、血の断絶によって木之内という後ろ楯を失った亮が、たったひとりで動くことになれば余計に危険だ…と感じたからだった。
少なくとも裁きの一族の目が多少なりと亮に向けられていれば、万が一の場合にはその護りを受けることもできる。
非情な指令を送りつけてもくるが同族を見殺しにはしない一族だから…。
ノエルがマーライオンの菓子箱を開けた。
はい…と有に差し出す。
有が中の焼き菓子をひとつ取るとにっこり笑って亮にも渡す。
まるで女の子のような優しい仕草だ…。
けれどそれは瞬時のこと…次の瞬間にはノエルは荒々しい動きを見せる。
戯れに格闘技の真似事などすると身体は小さいのに身のこなしが良く、亮より格段に強い。
参った…と音を上げる亮をケラケラと笑って擽ったりしている。
この不思議な男の子が家に居るお蔭で…有はこの頃では時折帰ってくるこの場所を確かに家と感じ、亮との生活の場を家庭と捉えることができるようになってきていた。
そのことから言えば、居候ノエルはすでに有と亮にとって欠くべからざる家族になっているのかもしれない。
それでも何時かは…自分の本当の居場所へと戻っていくのだろう…。
望んではいけないことだが…ノエルが完全な女の子であったなら…亮の嫁さんに迎えることもできるのになぁ…などということまでつい考えてしまう。
馬鹿げているとは思いつつも…。
笑い転げている若いふたりを見つめながら、有はひとり過去へ未来へと思いを馳せていた…。
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