楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

2023自転車旅は下北に決めた

2023年08月12日 | 『私の自転車旅物語』

午後5時、机のデジタル温度計は32℃を示している。

北海道にしては暑い夏だ。

 

昨年の8月の下関から舞鶴まで2週間の自転車旅を思い出す。

連日35℃前後、日本海の沖からの風は塩分を含んでいるのか、肌に粘り着くようなむし暑さを運んできた。

テントは暑く、天橋立付近では公園の東屋のベンチに寝た。

 

今年の自転車旅は下北半島の太平洋側と決めた。

三浦雄一郎氏は「夢を持ち続けるとやがて希望に変わり、準備をするようになる。」と語っている。

完成するかどうか判らないが本州の太平洋側を何回かに分けて走ってみる夢を持った。

 

先ずは苫小牧から八戸までフェリー、その後大間を目指して北上するプランを立てていたら、2019年に納沙布岬のライダーハウスで一緒になった神奈川県のOさんから8月下旬に苫小牧から北海道をオートバイで回るという連絡が入った。

Oさんとは昨年も月形のキャンプ場で落ち合って「食べたことが無い。」というジンギスカン鍋を囲んだ。

今までカブで旅をしてきたが、今年からオートバイに変わった同じ74才である。

若い頃バイクに乗っていて、今はカブという人にはよく出会うが・・・。

 

Oさんは大洗からフェリーで苫小牧に上がる予定だったが、台風7号が接近しており、結局、陸地を走って私が滞在する予定の下北半島の薬研温泉で合流することになった。

薬研温泉は2017年に恐山に行った時にキャンプしたが、温泉が無料でキャンプサイトも広く、気に入った所だ。

 

あとは下旬の天気回り。

自転車旅のプランを練っている時は夢に向かう第一歩で楽しい。

 

2022.7.24 山口県萩港の朝

 

2022.7.30 鳥取県の砂丘へ向かう途中

 


やっぱり自転車旅をしよう

2023年08月07日 | 『私の自転車旅物語』

福岡から親戚ご夫妻が遊びに来た。

あいにく雨模様の日が続き、車のワイバーも利かないくらいの猛烈な雨の中を上富良野から十勝岳展望台を経由して旭岳温泉へ1泊旅行した。

 

十勝岳連邦と大雪山連邦は気温16℃の深い霧の中だったが、福岡とは20℃近くも低く、温泉にゆっくり浸かり、格好の避暑になったようで大いに喜んでくれたのは良かった。

 

1,000m地点にある宿に吹く風は秋風のように冷んやりして、北海道の夏がもう終わるのかと少々焦りのようなものを感じた。

今年はまだどこへも自転車旅に出掛けていない。

 

今日(7日)、ご夫妻は家の近所の穫れたての沢山のトウキビと礼文島の縞ホッケの開きを買って九州へ戻った。

見送りの新千歳空港は全国高校総体帰りの若者と夏休み旅行の家族連れで溢れていて、眺めていると何処かへ自転車旅に出たくなった。

 

 

右端にさんま師と大泉洋 2023.8.6  12:50頃  エスコンフィールド

 

 

6日(日)のエスコンフィールドは福岡・ソフトバンクとファイターズの試合だった。

開始前に突然、さんま&大泉の〝乱入〟があって、数分間の掛け合いで盛り上がったが、試合はピリッとしない凡戦だった。

 

熱烈なソフトバンクファンである遠来のお客さんも「勝つには勝ったが・・・。」

さんま&大泉がこの日の収獲だった。

一瞬にして3万人の心を鷲づかみにした。

 

さんま師匠の再三の呼びかけに新庄監督は姿を見せなかった。

目立ちたりがり屋の監督もさんまのツッコミに当意即妙に返す自信は無かった?

エンターテイメントではさんま師がやはり1枚も2枚も上か。

 

 

 


73才十勝岳自転車登山 - 「吹上温泉」の句碑 -

2022年10月10日 | 『私の自転車旅物語』

 

十勝岳の標高1,000mの地点に登山のベースともなっている「白銀荘」(吹上温泉)があり、隣接するキャンプ場の目立たない場所に古い句碑が建っている。

2020年8月の十勝岳自転車登山でキャンプした時に見つけた。

当時、資料を読んで、俳人長谷川零餘子(むかご)が冬の「吹上温泉」まで馬橇で登った時に詠んだ一句であることを知った。

 

       - 鬼欅の中の温泉に来ぬ橇の旅 

                         長谷川零餘子 -

 

再度、資料を読んでみた。

 

零餘子は群馬県に生まれ、苦学して東京帝大で薬学を学ぶが俳句界でも頭角を現わしていた。

卒業後、一年にも満たない時期に高浜虚子から「二兎を追うものは一兎を得ず」の意味を教えられ、俳句の道に生きることを決心する。

 

俳句のことは知らないが、零餘子は「物はみな立体の分子で成り立っているが人間の眼は不完全で物は立体に見えない。それ故、物を心眼で見なければならぬ。」と『立体俳句』を提唱した。

理論的にものごとを考える理系の人柄を感じる。

後に写実の「ホトトギス」と対抗する俳誌「枯野」を創刊主宰し、大正時代から昭和初期の日本、そして北海道の俳句界に多大の影響と足跡を残したとある。

 

零餘子は冬の北海道を馬橇で旅をしたかったらしいが想像するような牧歌的なものではなく、上富良野駅から猛吹雪の中、12時間をかけて夜中の11時にやっと吹上温泉に辿り着いている。

馬橇の馭者の述懐によれば、猛吹雪の中、馬も体からもうもうと汗を出し、十メートル進んでは休み、又進むというまさに〝難行苦行〟だったらしい。

あの坂を・・・。

 

俳壇関係者は北海道の冬の大自然の景観を味う事ができるのは十勝岳と思いついたらしいが、吹雪の十勝岳を登る零餘子一行と馬の姿に困難な道を拓き進む姿が溢れている。

 

句碑は、十勝岳を霊山にしようと数々の努力と苦労を重ていて、零餘子の馬橇登山を思いついた旭川の聞信寺先代住職によって大正13年に建立された。

永年の風雪でいつのまにか倒れ土砂の中に埋もれ、終戦後も町民や俳人からも忘れ去られていたが、昭和四十二年に上富良野町と上富良野町観光協会によって鮮やかに蘇がえったとある。

 

先日、十勝岳の「吹上温泉」から降りてきて2022年の自転車旅はひとまず終わった。

標高1,000m、19Kmを登りは4時間20分、下りはあっという間の30分だ。

今、零餘子の資料を再度読み返して、「吹上温泉」の物語のひとつが余韻として残った。

 

「喰うものに パン二つあり 橇の旅」という句もある。

次はいつか。

 

《2020年8月撮影》

 

上の浴槽は源泉が流れ込み、沢水は殆ど入れないので48℃。熱いと言うより痛い。

透明で油のような質感がある。

下は温度調整している。

 

自然に抱かれ、脱衣場も無く混浴という露天風呂の原型がある。

将来、冬に訪ねてみたくなった。

 


73才十勝岳自転車登山 - ライダーハウス 『ヒグマ』 -

2022年10月06日 | 『私の自転車旅物語』

 

 

上富良野町の自衛隊駐屯地の裏にライダークラブ『ヒグマ』がある。

錆びた金属類が無造作に置かれた敷地に古い納屋とともに建っている。

 

十勝岳「吹き上げ露天風呂」への自転車登山の行き帰りにいつも通りかかり、一度は泊まってみたいと思っていたが、看板に「家族旅行歓迎」等々あるものの、中に入るにはなかなか勇気のいる構えであった。

 

どんな〝ヒグマ親爺〟がいるのだろう。

いつもは近くの「日の出公園」でキャンプをするが、朝夕の気温も下がってきたので今回泊まってみることにした。

 

木造平屋の家の玄関には、「耳が遠いので大声で呼んでください。」との張り紙があり、そのとおりにする。

やや暫くして、後で聞くと80才というKさんが現れた。

 

家の中に招き入れて貰うと几帳面な性格らしく、部屋は綺麗に片付き、暖かい。

「部屋での飲酒、大声の歓談は禁止」など、旅人への注意書きが何枚も。

 

 

壁に古い写真が数枚貼られていた。

立ってよく見ると子熊を抱いたKさんの隣に若かりし黒柳徹子女史の姿が。

 

そして、小さい頃に育った山里の熊撃ち名人Mさんが仕留めた羆を馬車に積んで引き上げる後をついて行って見ていた羆の解体写真も。

毛皮を剥がされた胴体は脂肪で真っ白だ。

 

ソファに座り直すとKさんが作業服を手にして「立って」と言う。

そしてすっぽりと被せられて別の所へと連れられて行く。

不安が過ぎる。

 

間もなく隣の部屋の戸が開けられたと思しきその瞬間、作業服が取り払われて眼前には大な羆の顔が!

 

 

悲鳴、そして大笑い。

Kさんは気難しそうでなかなか茶目っ気のある人とみた。

そこは剥製部屋、全て手製という。

 

見事な夏毛である。

金太郎のように跨がらせられたがつるつるしていて滑り落ちそうになる。

 

うち解けて居間でいろいろな話しになった。

豚を飼ったり、タイヤ販売業などをしながら23才から熊撃ちをしていたが身体が不自由になって3年前に辞めたという。

奥さんを十数年前に亡くされ、一人暮らしだが最近は近所に住む娘さんが食事を届けてくれたりしているそうで安心そうだった。

 

 

最近、ニュースで羆の目撃情報が多い。

出会ったらどうすれば良いのか。

 

「絶対に目を合わせないこと。」

「知らない振りをして動かないこと。」

「立ち去るのをじっと待つこと。」

 

語る眼差しは臨場感に溢れていた。

 

 

エッセイに Kさん登場(1982年)     加藤紘一氏の為書き

 

多くの著名人が訪ねていて、Kさんは「皆さん泊まって行った。」と懐かしそうな顔をした。

 

この日は貸し切り。

時々見せる精悍さとすっかり好々爺の〝ヒグマ親爺〟に会えてぐっすり寝た。

 

 

 


73才十勝岳自転車登山 -街道を行く-

2022年10月05日 | 『私の自転車旅物語』

百名山の十勝岳(標高2,077m)に一度だけ高校生の時に登山した。

頂上に近づくにつれて視界が悪くなり、引率のT先生の「引き返す」のひと言にメンバーの5人がぶつぶつ言いながら下山した。今、先生の正しい判断に感謝している。

 

標高1,000地点に登山口があり、傍にベースとなる白銀荘とキャンプ場が隣り合っている。

そこから7~8分歩いた沢に混浴で脱衣場も無い〝完璧な〟露天風呂の「吹き上げ温泉」がある。

 

二つの浴槽があり、源泉48℃の超高温の浴槽は主に地元の「常連さん」がアツイというより痛みに近い湯にどっぷりと浸かっている。

最初は10秒ほど入ってすぐに出て、かけ湯を繰り返しながら少しずつお湯に入る時間を延ばしてゆくのだそうだ。

 

もうひとつ、沢水で温度調整した「一般向け」の浴槽がある。

こちらはバイクなどの旅行者や地元の女性がTVシーンのように楽しんでいる。

時々、日本文化に触れたくて来たような陽気な外国人に出会う。

 

秘湯を訪ねるのが楽しみで、もう6~7回は自転車で登ってきただろうか。

今回はいつもより温度が低いように思えた。

 

年々、坂道を登る時間は掛かるようになってきたが、楽しみを目的地にしているので続けられているのだと思う。

急傾斜の街道も自転車ならではの達成感で湯に浸かるための誘導路と思えば楽しい。

 

そこで、 -街道スナップ-

 

 

 

札幌駅前バスセンターで「高速ふらの号」を待つ。往復4,720円(予約不要)、2時間30分でJR富良野駅に到着。

自転車を組み立て、17Km先の上富良野町まで走行開始。

 

 

上富良野町のライダーハウス「ヒグマ」に1泊して、白銀荘での自炊夕食用に肉屋に寄って上富良野町のソウル・フードの「豚サガリ(横隔膜)」を買って19Km先へ向かって出発。

「豚サガリ」は内臓肉なので食肉処理施設のある所でしか手に入らない時代があった。

新鮮なサガリをニンニク風味の秘伝のタレに浸けた肉は美味である。

 

 

     

 

10Km付近までは軽いアップダウンのほぼ平坦路が続く。

道路横に姫林檎より小さい山林檎のような木があった。

渋いけれど甘酸っぱく、山ブドウやコクワを採って遊んでいた子供の頃を想い出した。

 

     

 

紅葉が進んでいる。ピーク直前といったところか。

写真を撮りながら、休みながら進む。

 

残り10Km辺りから標識が無く、やや登りがキツくなり始める。

休憩をどんどん入れ、「そのうち着くさ」と気楽に走る。

 

 

  

 

暫く走って、次に出てくる標識は「残り2.9Km」。

ほぼ急勾配は終わって、もうすぐだ。

ここで40分の昼食タイム。

即席の生ハム〝ちくわパン〟。美味い!

 

 

 

100mほどで十勝岳温泉(行き止まり)と白金温泉(層雲峡へ抜ける)の分岐点がある。

直進すると日本最北の温泉「凌雲閣」がある。

露天からの十勝岳の紅葉、雪景色は素晴らしい。

 

今回はここから左折して目的地の「吹き上げ温泉」へ。

バス停と入山記録小屋がある。

残り2Kmは登りと下り。それほどキツクない。

 

 

 

富良野市街地を見下ろせる撮影スポットはあいにく雲がかかって紅葉はよく写らず。

 

 

中央に十勝岳の白い噴煙が僅かに見える

 

 

 

                                美瑛岳か? 

 

4時間20分、到着!!

 

    

 

 


自転車旅で歩けなくなった?!

2022年08月17日 | 『私の自転車旅物語』

1996年に日本人で初めてツール・ド・フランスに出場した今中大介氏がプロのロードレーサーは歩くのが苦手ということを本に書いていた。

3週間に亘って、3,000Kmをアルプスを越え、ピレネーを越えて走る強靱な体力の持ち主にして2Kmくらいしか歩けない選手もいるらしい。

使う筋肉が違うということだ。

 

先日、下関から舞鶴まで700Kmを2週間の自転車旅をして帰宅した時のこと。

妻の買い物に付いて近くのスーパーへ向かっていると足の運びにぎこちなさがある。

手の振り、上体の揺れなど身体全体のバランスも悪い。

そうか、これが今中氏の言っていたことかと理解出来た。

 

7時前に出発し、6~7時間くらい自転車に乗り、夕方にテントを張って午後8時には寝てしまう。

毎日この繰り返し。

歩くのはコンビニへの出入りとテントの周辺、それに炊事場とトイレだけだった。

 

舞鶴から小樽までの一昼夜のフェリーの中でも歩くことは殆ど無し。

多少の揺れがあるので歩きの違和感に気付かなかった。

 

2週間が経って元に戻ったが、昨年の津軽半島・龍飛崎から新潟までの旅では感じなかったことにトシを感じる。

道中二人の〝歩きの旅人〟に出会ったが、歩くということは二足歩行のヒトにとってとても基本的な体力、脳のバランス機能を使うということだ。

大事にしたい。

 

《日本縦断歩き旅の青年  2022.7.22  長門→萩 にて》

 

 

 

 

 

 

 


『 私の自転車旅物語 2022 』  ー日本海縦断- 10 お終い

2022年08月05日 | 『私の自転車旅物語』

3年前の道東自転車旅で出会ったOさんと月形町皆楽公園キャンプ場で昨晩再会した。

霧の納沙布岬のライダーハウスで出会い、その後、厚岸町霧多布キャンプ場で再会し、「いつか又北海道で」と別れたが実現した。

Oさんは7/24日に小田原を北海道に向けてカブで出発、自分は7/21日に下関から舞鶴港に向けて自転車でスタートしていたが上手い具合に8/4日に自宅近くのキャンプ場で再々会出来きたのはSNSの威力だ。

互いの位置確認と進み具合が簡単に調整出来てしまう。

 

さすがにチャリという元気は無くて車で出かけ、車中泊した。

Oさんのたってのリクエストであるジンギスカン鍋で旧交を温め、仕事時代の話しも家庭のこともたったの3回目で随分と話し込んだ。

自転車とバイクという乗り物は違っても放浪?流浪?の旅の出会いは意気投合すると濃い語らいになるものだ。

 

Oさんは軽度のガンが見つかったが80才までカブ旅を続けると意気軒昂、自分は75才まで自転車を続けると応じて、再々々会が次の楽しみになった。

チャリとバイクのどちらが長生きするか、結論は出ず。。。次回か。笑

 

「日本海縦断自転車旅」は舞鶴港から小樽港にフェリーで戻って無事〝完成〟した。

フェリー船内で30年間、単身赴任で東南アジアの建設現場で頑張った70才さんと話す機会があった。

奥さんと了解済みで結婚し、途上国の発展に努め尽くした人生に脱帽だった。

モーレツ社員の時代か。今では考え難い。

 

衰退する日本を目の当たりにしているが、これ迄の成長の陰には様々な貢献をしてきた人々がいたことを改めて知る。

「日本人が苦手です。」と笑う顔が印象的だった。

 

鍋釜を持った若者3人のツーリストが乗船していた。

このスタイルは大学サイクリング部だ。聞くと関西の超難関校の1年と2年。

 

どのような分野に進むかを既に持っていて、自分の学生時代とは大違いで感心する。

活躍して日本を再生して欲しいものだ。

 

 

 

 

 

 


『 私の自転車旅物語 2022 』  ー日本海縦断- 9

2022年08月02日 | 『私の自転車旅物語』

 

8/2 無事、舞鶴港に到着した。

舞鶴と敦賀の間はどうも原発がイヤで避けたが、3回に分けて本州の日本海沿岸を縦断する事が出来た。

 

災害はいつ起きるか分からないがリスクは出来るだけ避けたい。

熊本地震に遭遇した記憶が過ぎる。

 

道路不通箇所があり、丹後半島周遊が出来なかったのは残念だが、12日間30℃超えの中、無事に走り切れて良かった。

 

昨日は豊岡から天橋立の60km。

 

《天橋立》

 

なかなかキャンプ場所が無くて探していたら、バイク日本一周の51才さんに出合い、天橋立から少し離れた道の駅周辺に見つけることが出来た。

東家にテントを張ったが蒸し暑く、夜中にベンチに出て寝た。蚊がいなくて陸風が気持ちよかった。完全?野宿は初体験だった。

 

バイクの旅人はコロナの影響で会社が閉鎖し、初めてのバイク旅が日本一周だった。

沖縄まで行くという。

どんな形であれ、籠らずに次の事を考えるための時間を持つのは素晴らしい。

ラインで繋がる旅人が一人増えた。

 

舞鶴港に向かって走っていると自民党の街宣車とすれ違った。

多分、統一協会、コロナを叫んでいたのだろう。

流石に強かである。野党との違いはここだ、

 

小樽行きフェリーの出港までまだ4時間もある。

今回の旅の反芻が始まる。

昨年の龍飛→新潟の旅に比べると、暑さのせいもあるにせよパワーダウンは1年といて言ってられないと実感した。

 

肌寒い北海道に戻ると思うと灼熱の太陽と別れ難い。

 

 

 

猛暑の中、舞鶴港で自衛隊員のボート訓練が行われてあた。

艦船は修理だろうか。 

 

 

 


『 私の自転車旅物語 2022 』  ー日本海縦断- 8

2022年08月01日 | 『私の自転車旅物語』

餘部の手前で。

ずっと並走して、北海道に旅行した想い出話しをしてくれた。

伊福部昭のことを知っていてビックリ。

74才が元気を貰ったと言ってくれた。

 

《キャンプサイトの傍》

 

鳥取砂丘のキャンプ場は砂丘の中といえば中にある。

通り掛かった人に砂丘の方向を聞くと、あちらと答える。

その方向に坂を下るとコンビニがあったので確認すると、真反対だった!

 

再び坂を登った。トホホ

苦労して砂丘の玄関口に辿りついたが、早朝で人もまばら。

昔の記憶を確認して出発。

 

 

昼頃に餘部鉄橋手前で交通止めの立て看板が。

丹後半島に抜けられないではないか!

乗用車は近くの高速道路があるが、二輪車は5km戻って国道9号に入り

ぐるっと迂回路を走ることになる。

これは明るいうちに目的地に着きそうもないとJR輪行して取り敢えず豊岡市まで来た。

途中駅でやはり二人連れの若いツーリストが乗ってきた。

 

道路情報は後戻りしなくても良いように早めから出しておいて欲しい。

 

豊岡駅の観光案内所で近くのビジネス旅館を予約。親切で久しぶりの畳と布団は気持ち良すぎて夜中に手足を

伸ばし過ぎて両脚の痙攣で何度も目が覚めた。笑

 

今日はひとまず京丹後に行き、丹後半島を回るか、天橋立に向かうか

考えることにして出発。

 

直売所で。やくも、という品種だった。二十世紀と遜色はなかった

豊岡駅は自転車スロープがあった。

 


『 私の自転車旅物語 2022 』  ー日本海縦断- 7

2022年07月30日 | 『私の自転車旅物語』

 

鳥取砂丘の傍のキャンプ場に来た。

34℃。

暑いので今日は50km、暫くはこの程度かな。

ペットボトル1本が簡単に空く。

 

山口県から島根県に入って、ずっと弱い向かい風で助かる。走っている時は涼しい。下りがサイコー!をまたまた実感した。

キャンプ場から砂丘は見えないので明日久しぶりに見ながら豊岡に向かうか。

 

隣に学校があり、到着した昼頃からずっと合唱の練習が聴こえていた。

うとうと1時間ほど昼寝の子守唄になった。

土曜日の午後、暑いのに頑張っている。

こちらただ汗かいて水飲んでいるだけ。笑

 

旅ライダーがいない。

堺港でロートル?の二人に会っただけで、若者はどうしたのかと話題になった。

単に暑いから、と言う理由だけでもなさそうだ。

世の中からいろんな形の「遊び」が消えてきて杓子定規の振る舞いばかりの世の中になりそうだ。

 

思えば突然「美しい国」とたどたどしく叫んでいた頃からこの国は統一協会に乗っ取られていたのだ。

買収の一票の積み重ね。

情けない。

 

今日は土曜日、近所に若者の声が響いている。

 

 

大学の寮で、コンパでいつも「貝殻節」を歌う先輩がいたことを思い出した。

 

昨晩のキャンプ場。今晩も似ている。