楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
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『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 - 5

2021年12月30日 | 『私の自転車旅物語』

 

2015年4月12日

薄曇りの空。長崎県南端の野母崎から85Km走って夕方に島原のY.Hに着いた。

島原は大学のラグビー部に入部した時の主将Hさんの出身地だ。アメリカ、スウェーデン、日本で研究・教育者の道を歩んでいたが20年前に若くして亡くなられた。

 

Y.Hは貸し切りだった。4月の九州は桜も残っていて晴れていれば北海道の人間には快適なシーズンだが、この時期の旅人はまだ少ないのかもしれない。

風呂に入り、おかみさんに紹介してもらった「島原一美味しいよ」という皿うどんの店に行くことにした。

 

今にも降ってきそうな夜道を15分ほど歩くとその店があった。美味しいという評判を聞いて来ましたと話すと、「Y.Hは従兄弟なんです」とのことだった。

長崎皿うどんは細くカリッと揚がった麺と思っていたら自家製の太麺だった。モチモチの食感は初めてだったが確かに美味しかった。

油を多く使うので最近は提供する店が姿を消しているとのことだった。

 

満腹になったが、「話しのタネに」と強く勧められ、『六べえ』という薩摩芋の麺を食べさせてくれる店を紹介してくれたので行くことにした。

 

江戸時代の1972年、〝島原大変肥後迷惑〟と呼ばれる大災害があった。普賢岳の噴火が傍の眉岳の崩壊を誘発し、海に崩れ落ちた土砂が引き起こした津波が島原領内ばかりではなく対岸の熊本、天草も襲った。

地域が崩壊し、食べ物に窮した人々を救ったのが、その名も「六兵衛」という庄屋さんが考案した『六べえ』だったという。

 

干したサツマイモの粉と山芋を練り合わせて茹でた3cmくらいの真っ黒い麺で、鰹と昆布の出汁を醤油仕立てにした素朴な汁物だった。

薩摩芋の甘味が乗っていて心に浸みた。

 

2015年4月13日

薄曇り。連泊して島原市内を見物した。

 

 

島原の市街地は普賢岳の伏流水が池を作り、川となって家の庭に流れ、綺麗な錦鯉が放されてる旧邸宅もあった。水の街だ。

 

  

《島原城と武家屋敷跡》

 

島原藩の代表的なキリシタン大名だった有馬晴信の家督を継いだ直純(14代)は家康の激しい禁教弾圧によって宮崎県に転封させられている。

その後に関ヶ原合戦や大阪の陣で軍功を上げて奈良から入ってきたのが松倉重政だった。

重政は島原城築城のために領民から例年の2倍の重税を徴し、過酷なキリシタン弾圧を進めた結果、1637年前に16才の天草四郎を総大将とする日本最大の農民一揆、『島原の乱』が起きる。

天草四郎はキリシタン大名の小西行長の家臣の子だった。

 

島原城は五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城だったが、明治の御一新で惜しくも解体された。

現在の城は1960年~1964年に復元されたもの。

 

《島原名物菓子 かんざらし》

探して探して、やっと見つけた店で食べてみた。薄い蜜に浸かった白玉団子がさっぱりしていた。

 

 

《キリシタン殉教者の慰霊堂と内部》

 

《内堀3兄弟殉教の慰霊像》

島原市内には松倉重政のキリシタン弾圧によって殉教した信者の慰霊像が数多く建っていた。

1627年2月21日、棄教を迫られた16人の中に内堀3兄弟も含まれ、拷問の末に真冬の有明海に沈められている。

末の5才のイグナチオは指を切断された小さな手をまるで神に捧げる薔薇のようにかざしたという。万感胸に迫り立ち尽くした。

 

2015年4月14日

晴れ渡る。天草へ向かう途中、『島原の乱』の原城に寄った。

 

 

《原城全景;観光協会》

 

《天草四郎の像と墓碑》

《原城からの有明海の眺め》

 

天草四郎を総大将に蜂起したキリシタン農民らは天草も含めて3万8,000人。

松倉重政によって廃城となっていた原城に3ヶ月間に亘って立て籠もり抵抗を続けた。幕府側の動員は12万人だったとという。

 

天草四郎は落城後に捕らえられて斬首されて長崎でさらし首、重政は鎮圧後に内戦の責任を取らされて斬首されて松浦家は断絶。両者とも悲劇的な結末となった。

 

原城は明治維新後に天守、櫓とも解体されたが、堀や石垣はかなりの部分が当時の姿を残している。

敷地内の天草四郎の像や墓標は遠い封建時代にあっても思想、信条の自由を掲げて勇敢に闘った人々がいたことを今に伝えている。 (つづく)

 



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