季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ワグネリアン

2009年01月11日 | 音楽
ブルックナーはワグナーの崇拝者だった。影絵でワグナーの前で腰をかがめている姿を見ることが出来る。

ワグナーは相手が誰であろうと、自分を賛美する人物を見つけて利用することに関して、じつにしたたかだったようだから、このようなブルックナーの態度を好ましく受け取ったに違いない。

ブルックナーの3番シンフォニーはトランペットが奏でる第一テーマで始まる。この開始をワグナーは大変気に入って、ブルックナーのことを「あのトランペット野郎」と呼んでいたそうだ。

トランペットで始まるだけならシューマンの1番の交響曲だってそうだ。でもこれはワグナーのお気に召したとはとても思えない。

面白いことに、ブルックナーがいかにワグナーを崇拝しようが、彼はワグナーの世界とは遠く離れたところにいる。あるところではシューベルトに似ているが、バッハの直系というほうが正しいとも思う。

ワグナーはこのようにあらゆる種類の夥しい信奉者を生み出した。ワグネリアーナ、あるいはワグネリアンと呼ばれる彼らの中でもっとも重要なのはニーチェだろう。

この人は後年、もっとも激越なワグナー批判者になる。このあたりの精神のドラマはじつに面白い。

ニーチェのワグナー批判は徹底していて、ということはそこで言及される細部は本当にその通りだ。同時にそれこそ僕がワグナーの音楽に心奪われる箇所なのだ。

ニーチェはワグナーを「細部における天才」とよんでいる。

たとえば「ワルキューレ」でヴォータンの言いつけに背いて(それは本当はヴォータンの本心なのだが)ジークムントを救おうとしたブリュンヒルデが永い眠りに就かされる場面がある。

ヴォータンは神性を剥奪された最愛の娘が眠る大岩の周りを火で囲み、この火を恐れずに越えてくる勇者だけが眠りを解くようにする。彼が杖を一閃するとローゲという火の神がブリュンヒルデを取り囲む。燃えさかる火の様子が、火の粉までピッコロ(だったかな)を使って表現される。鮮やかな手つきだ。

また、ブリュンヒルデが永い眠りから目覚める。ついに火を恐れぬ英雄が、これがジークフリートなのだが、現れたのだ。そこでの音楽の見事さ。僕たちは永い眠りの時間とまぶしい日の光とを同時に「見る」と言ってもよい。

このような才能をニーチェは「細部における天才」と呼んだのである。ニーチェの非難はたった一点に尽きる。ワグナーは自身の才能のありようを知らず、身の程知らずにも救済劇を創ろうとした。非常に簡単に言えばそういうことだ。

そのニーチェに対してもっとも本質的な批判をしたのはフルトヴェングラーで、「ワグナーの場合」という論文はきわめて優れたものである。

今僕はそれについて語りたいのではない。音楽家の中で、ワグネリアンであり、そこから反ワグナーになったドビュッシーについて、一片の感想を述べておきたいだけだ。書き始めたらつい他の方向に行ってしまった。結局分かったことは、僕がドビュッシーについて言いたいことは多くないということだな。

ドビュッシーのワグナー嫌いは、ニーチェのそれとほとんど変わらない。ニーチェの切実さが欠けているだけだ。もっとも、それは不名誉なことではない。

彼は情景を、印象を描写する。そこから神話を拵えようとはしない。彼の描写の力もワグナーとは違うけれど見事である。プレリュードの中のいくつか、たとえば「雪の上の足跡」や「ヒースの咲く荒地」など、実に良い。

書きたいことはあまり無いと書いたとたんにひとつ思い出した。忘れてしまいそうだから題を改めて書く。