昔のドイツ人ヴァイオリニストである。僕は若いころからこの人が大変に好きであった。どうやって知ったのだろうか、もう覚えていない。フルトヴェングラーとシベリウスの協奏曲を弾いているからそれがきっかけであったのか。あるいはケンプと大学時代から合奏していたから、そんな記事でも読んだのだったか。
この人を評価するヴァイオリニストは昨今の日本ではあまり見かけない。しかし僕にとっては実に、模範的とも言えるヴァイオリニストである。
音の透明度、表情の密度、とりわけ音程の感じ方が美しい。音程と音程感とはまったく違うものだ。ピアノ以外の奏者は一応そう考えている。ただし音程感と「感」がつく以上これは感覚的なものにならざるをえない。いくらピアノの音程は平均率だから本当の音程は違うのだと念仏のように唱えてみても、やはりダメな人はダメである。
カザルスが「ピアノの伴奏で音程が合わなくて大変ではないか」という質問に対し「音楽的なピアノ奏者ならばピアノなりの音程感をもって演奏するから心配ない」と答えている。これはその通りなのである。
クーレンカンプの演奏を聴くと、音程ひとつとっても、音楽の感じ方と密接な関係なのだと改めて感じる。
クーレンカンプは演奏史上、シューマンのヴァイオリン協奏曲を世界初演したことでも知られる。
メニューインが初演しようとしていたそうだが、ナチスの邪魔が入って果たせず、クーレンカンプが弾いたのだという。
そこいらの経緯については関心がないので詳しく知らない。僕はレコードで(今はCDも持っている)聴いて、大変気持ちのよい(シューマンの曲に気持ちのよいという形容が許されるかどうか、そこは僕の気持ちを察してください)演奏だと感じ、今も愛聴している。
こうした経歴でものを言うのが所謂音楽屋である。僕が持っているレコードの解説文も例外ではない。
クーレンカンプは戦後間もないころ50歳で亡くなっている。彼の生きた時代はほぼナチスの時代と重なる。演奏家としての人生を考えればなおさら重なっている。
言うまでもなくこれは単なる事実である。それにもかかわらず、解説者は「結局クーレンカンプはヒトラーと共に台頭し、ヒトラーと共に滅びたヴァイオリニストだと言っても過言ではあるまい」と書く。
これを読む限り、そして愛好家の多くは解説文が読めるからという理由で日本でプレスされたものを買うのだが、クーレンカンプはヒトラーが引き立てたから有名になったのであって、力量はさほどなかったのだ、と受け取るしかあるまい。
日本という国でそのような紹介のされ方をして、さぞかし無念だっただろう。長生きさえすればヒトラーと共に云々は言われずにすんだ。ヒトラーではなくナチスだったかもしれない。すぐ近くにレコードケースがあるけれど、確かめる価値すらない。
こうした手合いを文化的ゴロツキと言うのだ。その文章を読んだ人たちの多くが物知り顔に頷くのだ。
クーレンカンプはエドウィン・フィッシャー、マイナルディーとピアノトリオを組んでいた。残念ながらその録音はない。彼の死後、ヴァイオリンがシュナイダーハンに代わってからの録音ならばある。吉田秀和さんがいうフィッシャートリオというのはこちらのことである。
さがせばかなりの数の音源がある。ブラームスのヴァイオリンソナタ集などもある。ピアノは指揮者になったショルティが弾いていて、大変よい。指揮者ショルティはひどいものだったけれど、ピアニスト・ショルティは立派なものだ。そのあたりの事情について考えてみたいがそれはいずれ。
聴いたことのない人は一度聴いてごらんになることを薦めます。
この人を評価するヴァイオリニストは昨今の日本ではあまり見かけない。しかし僕にとっては実に、模範的とも言えるヴァイオリニストである。
音の透明度、表情の密度、とりわけ音程の感じ方が美しい。音程と音程感とはまったく違うものだ。ピアノ以外の奏者は一応そう考えている。ただし音程感と「感」がつく以上これは感覚的なものにならざるをえない。いくらピアノの音程は平均率だから本当の音程は違うのだと念仏のように唱えてみても、やはりダメな人はダメである。
カザルスが「ピアノの伴奏で音程が合わなくて大変ではないか」という質問に対し「音楽的なピアノ奏者ならばピアノなりの音程感をもって演奏するから心配ない」と答えている。これはその通りなのである。
クーレンカンプの演奏を聴くと、音程ひとつとっても、音楽の感じ方と密接な関係なのだと改めて感じる。
クーレンカンプは演奏史上、シューマンのヴァイオリン協奏曲を世界初演したことでも知られる。
メニューインが初演しようとしていたそうだが、ナチスの邪魔が入って果たせず、クーレンカンプが弾いたのだという。
そこいらの経緯については関心がないので詳しく知らない。僕はレコードで(今はCDも持っている)聴いて、大変気持ちのよい(シューマンの曲に気持ちのよいという形容が許されるかどうか、そこは僕の気持ちを察してください)演奏だと感じ、今も愛聴している。
こうした経歴でものを言うのが所謂音楽屋である。僕が持っているレコードの解説文も例外ではない。
クーレンカンプは戦後間もないころ50歳で亡くなっている。彼の生きた時代はほぼナチスの時代と重なる。演奏家としての人生を考えればなおさら重なっている。
言うまでもなくこれは単なる事実である。それにもかかわらず、解説者は「結局クーレンカンプはヒトラーと共に台頭し、ヒトラーと共に滅びたヴァイオリニストだと言っても過言ではあるまい」と書く。
これを読む限り、そして愛好家の多くは解説文が読めるからという理由で日本でプレスされたものを買うのだが、クーレンカンプはヒトラーが引き立てたから有名になったのであって、力量はさほどなかったのだ、と受け取るしかあるまい。
日本という国でそのような紹介のされ方をして、さぞかし無念だっただろう。長生きさえすればヒトラーと共に云々は言われずにすんだ。ヒトラーではなくナチスだったかもしれない。すぐ近くにレコードケースがあるけれど、確かめる価値すらない。
こうした手合いを文化的ゴロツキと言うのだ。その文章を読んだ人たちの多くが物知り顔に頷くのだ。
クーレンカンプはエドウィン・フィッシャー、マイナルディーとピアノトリオを組んでいた。残念ながらその録音はない。彼の死後、ヴァイオリンがシュナイダーハンに代わってからの録音ならばある。吉田秀和さんがいうフィッシャートリオというのはこちらのことである。
さがせばかなりの数の音源がある。ブラームスのヴァイオリンソナタ集などもある。ピアノは指揮者になったショルティが弾いていて、大変よい。指揮者ショルティはひどいものだったけれど、ピアニスト・ショルティは立派なものだ。そのあたりの事情について考えてみたいがそれはいずれ。
聴いたことのない人は一度聴いてごらんになることを薦めます。