季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

地名

2009年01月25日 | その他
もみの木台、みすずが丘、たちばな台、みたけ台、もえぎ野、桂台、若草台、若葉台、霧が丘、しらとり台、等々。僕が通るあたりの町の名前を手当たり次第、地図で見て列記したもの。断るまでもない、新興住宅地だ。

沿線の駅名も記しておこうか。たまプラーザを筆頭にあざみ野、つきみ野等、美しい名前が続く。

ついでに山手線の駅名も。

渋谷、原宿、新宿、大塚、田端、日暮里、鶯谷、秋葉原、田町、五反田等々、ずいぶん趣が違うでしょう。

原宿、新宿などは全国区の名前になっていて誰もなんら感想など持たないと思うが、都心を見渡しても、四谷、赤坂、日比谷といったぐあいに谷だの坂だのがたくさんついている。千駄ヶ谷にいたっては駄ですよ。

現代の新興住宅地は、美しいイメージを創らないと売れないからだろうか、台や丘や野の乱発が目立つ。谷だと日差しが悪いような印象なのだろうね。

上野に野が付くといっても、この素っ気なさは即物的といいたいほどだ。鶯谷から上れば上に野原がある、というまことに当たり前の次第であることがわかる。

谷があれば山もしくは高みがある。それならば低い土地にも高いところの名前をつけて2丁目、3丁目にしてしまえ。推察するまでもない、このような次第で、○○台3丁目は谷底である、と相成った。間抜けなことだ。

まぬけならまだ良いのだが、このやたら美しい名前はフワフワしていて落ち着かない。町並みひとつとっても、おお、これはきれいな落ち着いた町並みだ、というようなものはひとつもない。

つまり貧相な町並みを飾り付けただけの名前でごまかしている。そこには歴史も、現実も、なにもない。今頃荻窪なんて名前をつける度胸は誰にもあるまいね。窪地ですよ、坪単価がぐっと下がるかもしれない。

ご承知のように、日本にはごく少数の例外を除いて道には名前がない。ただ、地元で勝手に付けたものならたくさんある。

近所にはあいさつ通りというのがあって、まあ日本人しか読まないからいいようなものの、恥さらしだね。反射的に、ああ、現代人は挨拶をしないなあと思う。そういえば挨拶週間なんていうのまである。挨拶なんて、挨拶週間を設けて励行するものではないだろう。

この例も挨拶のない不気味さをあいさつ通りなんて言ってごまかしているわけでしょう。でも、それ以上に気持ち悪いと思いませんか。

この通りの名前が正式なものになってごらんなさい。それがうつくしが丘(実際にあるよ)にあってごらんなさい。住所を書くたびに赤面しなければならない。

○○市うつくしが丘1丁目あいさつ通り3番地○○ヴィラ 井伊音鼓なんてね。一二三と書いてワルツと読む名前まである時代だ。ドラムが好きで音鼓なんてとっくにある名前かもしれない。

赤坂なんて、伊藤博文が暗殺されかけたころは真っ暗な、月の光も届かぬような闇に包まれていたのだろう。ビルなんか建っているけれど、そこいらを歩いて名前を唱えただけでも往時を偲ぶことができる。

渋沢村なんてあったなあ。誰だったっけ、石川啄木かな。渋沢村は恋しけれ、だったように記憶するが。たまプラーザでは歌にもならない。今風の歌にはなるさ。でも時が経ったらなんの感情にも訴えかける力はないだろう。

いやでも月日は経つ。数百年後に生きる人たちはどんな風に現代を偲ぶのかね。見ものだな。