以前、算数ができない大学生という本が出た。学力の低下が叫ばれている折、結構話題になった本である。
僕は正確には知らないけれど、小学校4年あたりから算数での落ちこぼれははっきりと出始めるのではないだろうか。
つまり分数というやつが結構難しい。それまでは加減乗除算でもしもあやふやであっても、なんとなくの勘で通っていく。落ちこぼれていても、ちょっとしたことで挽回することができる。
それが分数になったとたん、今まで足し算では増えていた数字なのに、分母は増えず分子は増える。大抵の子供は分母は加減しない、と丸暗記してことが足りるけれど、中にはそんな丸暗記は苦手だという子も多い。いったん落ちこぼれると脱出しづらくなる理由のひとつだろう。
こんなことがあった。
小学校のクラス会で教育談義に花が咲いていた。かつての同級生に小学校の教師をしているのがいるため、毎回教育談義が繰り広げられるのである。
僕の隣にいた女性(もちろんかつてのクラスメイトだよ)がつぶやくように「私なんか、え、なぜ?と思うともうそこから先にはついて行けなくなったからねえ」と言った。僕はびっくりした。
僕の記憶では所謂学業はそう目立つほうではなかった人だ。「あなたはそう言うけれど、あなた、ものすごく賢い人なんだね」僕は心からそう言った。恥ずかしかった。僕などは丸暗記がやたらに速い部類だったのである。
「いえ、私なんかはただ何故だか分からないだけで」と相変わらず謙遜したままだったが。その分からないことを分からせることこそが教師の役目ではないか。隣に座った人のような人は他にもいるだろう。
少し前に紹介した法隆寺の大工、西岡さんもそういえば「なぜかぼちゃひとつとナスひとつを足したら2になるのか、まったく分からなかった」と言っていた。こういう根本的な疑問を持てる人を本当に賢いという。ただしかぼちゃとナスだったかは例によってあやふやだ。野菜だったことははっきりしているけれど。
分数の掛け算ならば、まずどんな子供にでも視覚的、感覚的に示すことができる。時折生徒に、どうやったら小学生に分数の掛け算を教えるかを訊いてみると、はたして覚束ない。ということは小学校でも本当に上手に教えられているのか、疑わしい。僕が訊いた生徒たちは、全員が、いわゆる優等生ばかりである。
で、僕が示すやり方でびっくりして納得するところを見ると、きっとそう教わっては来なかったのだろうと推察できる。
僕は基本的にアナログ人間で、パソコンで図形を描いたりできないのでここでは示さないけれど。
そして、ここで僕が書きたかったことの一番目は、割り算、分数の割り算のことだ。一度テレビである数学者が、たしか、円を使った図を用いて、じつに鮮やかな説明をしていた。僕はびっくりした。これならばほとんどの子供が理解できる、と思った。ところが、びっくりしすぎて忘れてしまった。驚きすぎて記憶喪失になる映画があるけれど、それはあり得るぞ。それ以来何年もイライラし通しなのだ。
誰か教えてくだされば有難いと思う。
二つ目は、そこから思いついたのではないが。大学を定年退職した数学者を小学校で雇うというアイデアはどうだろう。もちろんクラスを持たせるのではない。算数でここぞというところで教えてもらうのだ。きちんと相応の給料を払ってね。
正直に言えば、算数は生半可な知識、能力では本当には教えきれないと僕は思っている。せめて英会話を教える外国人を雇うくらいの感覚で数学者を呼べないものだろうか。
老数学者の中にも、かつての自分に帰り、数字に興味を持ち、その道に進んだことを思い出し、高度な数理を支える、いちばんはじめの段階を教えることに生きがいを見出す人がいるのではないか。いて欲しいものだ。
以前大学の教授や講師をしている知人にそんな考えはどうだろう、と提案したらみんな難色を示して意外だった。大学の教授まで務めて小学校の教師というのは権威に傷がつくといったことを、婉曲に言っていた。それは失礼だと言っていたな。たまたま彼らがそうだったのかもしれない。けちくさい誇りを持って生きているもんだ。失礼というなら、数学に対して失礼だと言いたいね。
僕は正確には知らないけれど、小学校4年あたりから算数での落ちこぼれははっきりと出始めるのではないだろうか。
つまり分数というやつが結構難しい。それまでは加減乗除算でもしもあやふやであっても、なんとなくの勘で通っていく。落ちこぼれていても、ちょっとしたことで挽回することができる。
それが分数になったとたん、今まで足し算では増えていた数字なのに、分母は増えず分子は増える。大抵の子供は分母は加減しない、と丸暗記してことが足りるけれど、中にはそんな丸暗記は苦手だという子も多い。いったん落ちこぼれると脱出しづらくなる理由のひとつだろう。
こんなことがあった。
小学校のクラス会で教育談義に花が咲いていた。かつての同級生に小学校の教師をしているのがいるため、毎回教育談義が繰り広げられるのである。
僕の隣にいた女性(もちろんかつてのクラスメイトだよ)がつぶやくように「私なんか、え、なぜ?と思うともうそこから先にはついて行けなくなったからねえ」と言った。僕はびっくりした。
僕の記憶では所謂学業はそう目立つほうではなかった人だ。「あなたはそう言うけれど、あなた、ものすごく賢い人なんだね」僕は心からそう言った。恥ずかしかった。僕などは丸暗記がやたらに速い部類だったのである。
「いえ、私なんかはただ何故だか分からないだけで」と相変わらず謙遜したままだったが。その分からないことを分からせることこそが教師の役目ではないか。隣に座った人のような人は他にもいるだろう。
少し前に紹介した法隆寺の大工、西岡さんもそういえば「なぜかぼちゃひとつとナスひとつを足したら2になるのか、まったく分からなかった」と言っていた。こういう根本的な疑問を持てる人を本当に賢いという。ただしかぼちゃとナスだったかは例によってあやふやだ。野菜だったことははっきりしているけれど。
分数の掛け算ならば、まずどんな子供にでも視覚的、感覚的に示すことができる。時折生徒に、どうやったら小学生に分数の掛け算を教えるかを訊いてみると、はたして覚束ない。ということは小学校でも本当に上手に教えられているのか、疑わしい。僕が訊いた生徒たちは、全員が、いわゆる優等生ばかりである。
で、僕が示すやり方でびっくりして納得するところを見ると、きっとそう教わっては来なかったのだろうと推察できる。
僕は基本的にアナログ人間で、パソコンで図形を描いたりできないのでここでは示さないけれど。
そして、ここで僕が書きたかったことの一番目は、割り算、分数の割り算のことだ。一度テレビである数学者が、たしか、円を使った図を用いて、じつに鮮やかな説明をしていた。僕はびっくりした。これならばほとんどの子供が理解できる、と思った。ところが、びっくりしすぎて忘れてしまった。驚きすぎて記憶喪失になる映画があるけれど、それはあり得るぞ。それ以来何年もイライラし通しなのだ。
誰か教えてくだされば有難いと思う。
二つ目は、そこから思いついたのではないが。大学を定年退職した数学者を小学校で雇うというアイデアはどうだろう。もちろんクラスを持たせるのではない。算数でここぞというところで教えてもらうのだ。きちんと相応の給料を払ってね。
正直に言えば、算数は生半可な知識、能力では本当には教えきれないと僕は思っている。せめて英会話を教える外国人を雇うくらいの感覚で数学者を呼べないものだろうか。
老数学者の中にも、かつての自分に帰り、数字に興味を持ち、その道に進んだことを思い出し、高度な数理を支える、いちばんはじめの段階を教えることに生きがいを見出す人がいるのではないか。いて欲しいものだ。
以前大学の教授や講師をしている知人にそんな考えはどうだろう、と提案したらみんな難色を示して意外だった。大学の教授まで務めて小学校の教師というのは権威に傷がつくといったことを、婉曲に言っていた。それは失礼だと言っていたな。たまたま彼らがそうだったのかもしれない。けちくさい誇りを持って生きているもんだ。失礼というなら、数学に対して失礼だと言いたいね。