季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

語学

2009年01月17日 | その他
和声学について、アバウトな和声学のすすめを書いた。ついでに白い目で見られることを覚悟してアバウトな語学の薦めを書いておきたい。

およそヨーロッパの言語のうちドイツ語くらい簡単なものはあるまい。なんて大きく出たが、他の言語を知っているわけではないし、ドイツ語も今やもう怪しいものだ。見栄を張らずにもっと正直に言えば、ドイツで生活していたころも怪しげだった。それでも英語がたいそう難しい言語だということは分かる。というより、何のことやら分からない言語だということが分かる。

吉田健一さんが何回も英語についてエッセーを書いているけれど、繰り返されるのは英語くらい難しい言語はないということだ。それらはいずれ紹介してみようと思っているが、今日はまずドイツ語はそれほどまでに易しいのに、大学生の間では難しすぎて授業は取らないほうが無難である、という空気があることに触れてみようか。

あとで(覚えていれば)吉田さんの言う「難しい」の意味にも触れましょうか。

ドイツ語を勇んで選んだ人は、まず最初のページからつまずく。名詞は男性名詞、女性名詞、中性名詞に分けられ、それぞれが定冠詞と不定冠詞をもつ。ここだけで英語に対して3倍のビハインドを持たされる。

動詞も人称によって変化する。ここでも英語は簡単でいいよなあ、とため息が出る。目的語も直接目的語と間接目的語がある。4格、3格というけれど。

形容詞の語尾も格や人称によって変化する。ことがここに及ぶにあたり、まず大概の人が憤然として教科書を投げ出し、ドイツおよびドイツ人を軽蔑する。ドイツは理屈っぽいからきらいだ。内心では「でもシューベルトやブラームスはきれいなのに、なにか変・・・」と一抹の不安を抱えながら、そのもやもやとした疑問を押しつぶしてしまう。

ただ、学生の中にはそういったこまごました事項を確実に覚えていくことに快感を覚えるのが必ずいて、当然のことながら成績がよい。しゃくだよなあ。

思わず怠け者の本音が出てしまったが、そういう「優等生」も世の中には必要さ。しかしこのような人種の一般的な特徴として、自分の努力が成功をもたらせたという満足感が強く、柔軟な発想に欠ける。その人たちの中で運の良かった人がドイツ語の教師になったりする。すると面倒な変化を覚えたがらない生徒を怠け者扱いにして、まあ僕を含めて怠け者なのは正しかろうが、悦に入る。他の学習の仕方もある、興味の持ち方もあると考えないのだね。自分が好きな道があれば、それにひとりでも多くの人が関心を抱いてもらいたいと願うのが人の情だと僕は思うのだが。そのためならば一工夫したり、些細なことは見逃しても一向に構わないと思うのだが。

僕もドイツで一応ドイツ語学校に通ったのだ。当時は僕のほかは出稼ぎのトルコ人、ギリシァ人が多かった。

授業の始めに型どおりの小テストがある。毎回返されるのであるが、僕だけが満点なのだ。すごい、と感心する人は、日本的な価値観にやられちまっているぞ。

その後、これも型どおりの授業があって、最後に自由な討論をする。当時はシュミットという人が首相を務めていたが、昨日のシュミットの外国人政策に対する発言をどう思うか、とかね。

ここでテストの満点が何の効力も持たぬことを思い知らされた。僕以外の人は、なにせ生活がかかっているのである。口角泡を飛ばすとはこういうことだ、と深く納得する勢いで喋るのだ。そのドイツ語はもう滅茶苦茶で、しかも不思議なことに僕にも何を言おうとしているのかが分かるのだった。

分かるけれども口は挟めない。当然だろう。こちらは身分も保証され、滞在許可も与えられているのだ。外国人政策といえども対岸の火事なのである。

結論は非常に早くやってきた。学校にいても時間の無駄だ、自分が話したいことを話す以外に方法はない。一番良いのは異性の友を作ることなのは、周囲の女性を見て得心していたが、これは僕の意欲がいかに旺盛でも如何ともしがたい。人間辛抱と努力でなんとでもなる、という教えに決定的に決別したのはそんな事情さ。

予想に反して長くなってしまった。続きは後にする。