「ブタがいた教室」は僕が思っていたよりもはるかに多くの人の関心をひいていたようである。
ためしに検索をかけてみてください。もうやたらにたくさん出てくる。
僕はこんなことばかり書いているから暇そうに見えるだろうな。その通りだよ。でも、さすがにヒットしたものを全部チェックする根気はないね。
いくつかを読んでみたが、似たり寄ったりだ。
この映画の制作上の工夫というかクライマックスは、生徒たちがピーちゃんをどうするかについて討論する場面だという。まあ、常識的にそうだろう。工夫というのは、その場面は台本に台詞がなく、子役たちに本物の討論をさせたことなのである。
まあ考えたことは考えたね。ここで真迫力ある演技を要求するにはこの方法に限る。検索で出たものの多くはそれについて賛辞を評していた。たぶん誰が見てもそう感じるのだろう。ただひとつ、見てもいない映画を論じることはできないが、予想されることを言っておこう。
そこでの討論はなるほど、熱を帯びるだろう。へたな芝居よりはるかに現実味を帯びるだろう。現実味を帯びるもへったくれもない、現実の討論なのだから、現実味ではない、現実なのだ。
ただし、そこに決定的に欠けるものがある。自分たちの討論に一匹のペットの命がかかっているという悲痛さは、どうやってもでてこない。討論はいくら現実のものであっても、あくまで討論だ。そこでの子役たちが数年後インタビューを受けて、顔にモザイクをかけてもらいたい、トラウマになってしまって、というはずがないのはお分かりだろう。
つまり、数え切れないくらい検索されてくる「ブタがいた教室」への感想も、この映画における子供たちの「ガチンコ」の討論とまったく同じものになる。似たり寄ったりになる道理である。
賛成の立場を取ろうと、反対の立場を取ろうと、子役たちの討論以上になるはずがない。
ここで問題が起こる。僕は、映画の中での討論は悲痛さだけは出るはずがないと書いた。だからこそ生きた討論にするために生きたブタを育てたのではないか、これこそまさに命の教育だろう、という結論も導かれることだ。
先日書いた文章中、僕は討論をするだけならば宮沢賢治の「なめとこ山の熊」あたりを読んで討論をしたら目的は達成できるだろうと書いた。しかしこれではやはり悲痛さは出ないことはいうまでもない。
おそらく本物の生徒たちは命について真剣に考えただろう。ではやはりこの授業は必要だったのではないか?
ここでもう一度考えよう。映画の子役たちは悲痛さを持つことなしに、それでも真剣に考えた。だからこそ感想を書く人たちもその点を賞賛する。
教育に、命が大切だということを「教える」ために悲痛さは必要であるか。たかが映画一本でこれだけの数の人がふだん意識にのぼらぬ事を考えたではないか。命の大切さは教える性質のものであろうか。各人がそれぞれ身にしみて感じることがある、そういうものではないか。先に副作用のある薬には、仮に効果が大きくても禁止令が出ることも書いた。この授業を考え出した教師の声が「涼しげでさわやか」と形容される種類の声だということも書いた。もういちど、僕は振り絞る声以外は信じないと書いておこう。
それにしても、この教師が生徒に課した課題は残酷ですらあったことを指摘したものは、僕が読んだものの中にはなかった。僕にはそちらの「不感症」の方が気にかかる。みんな事柄のセンセーショナルなことに振り回されて、根底にある一種奇妙な冷酷さは無視されているように感じる。この「冷酷さ」は「正しさ」に守られている。
ためしに検索をかけてみてください。もうやたらにたくさん出てくる。
僕はこんなことばかり書いているから暇そうに見えるだろうな。その通りだよ。でも、さすがにヒットしたものを全部チェックする根気はないね。
いくつかを読んでみたが、似たり寄ったりだ。
この映画の制作上の工夫というかクライマックスは、生徒たちがピーちゃんをどうするかについて討論する場面だという。まあ、常識的にそうだろう。工夫というのは、その場面は台本に台詞がなく、子役たちに本物の討論をさせたことなのである。
まあ考えたことは考えたね。ここで真迫力ある演技を要求するにはこの方法に限る。検索で出たものの多くはそれについて賛辞を評していた。たぶん誰が見てもそう感じるのだろう。ただひとつ、見てもいない映画を論じることはできないが、予想されることを言っておこう。
そこでの討論はなるほど、熱を帯びるだろう。へたな芝居よりはるかに現実味を帯びるだろう。現実味を帯びるもへったくれもない、現実の討論なのだから、現実味ではない、現実なのだ。
ただし、そこに決定的に欠けるものがある。自分たちの討論に一匹のペットの命がかかっているという悲痛さは、どうやってもでてこない。討論はいくら現実のものであっても、あくまで討論だ。そこでの子役たちが数年後インタビューを受けて、顔にモザイクをかけてもらいたい、トラウマになってしまって、というはずがないのはお分かりだろう。
つまり、数え切れないくらい検索されてくる「ブタがいた教室」への感想も、この映画における子供たちの「ガチンコ」の討論とまったく同じものになる。似たり寄ったりになる道理である。
賛成の立場を取ろうと、反対の立場を取ろうと、子役たちの討論以上になるはずがない。
ここで問題が起こる。僕は、映画の中での討論は悲痛さだけは出るはずがないと書いた。だからこそ生きた討論にするために生きたブタを育てたのではないか、これこそまさに命の教育だろう、という結論も導かれることだ。
先日書いた文章中、僕は討論をするだけならば宮沢賢治の「なめとこ山の熊」あたりを読んで討論をしたら目的は達成できるだろうと書いた。しかしこれではやはり悲痛さは出ないことはいうまでもない。
おそらく本物の生徒たちは命について真剣に考えただろう。ではやはりこの授業は必要だったのではないか?
ここでもう一度考えよう。映画の子役たちは悲痛さを持つことなしに、それでも真剣に考えた。だからこそ感想を書く人たちもその点を賞賛する。
教育に、命が大切だということを「教える」ために悲痛さは必要であるか。たかが映画一本でこれだけの数の人がふだん意識にのぼらぬ事を考えたではないか。命の大切さは教える性質のものであろうか。各人がそれぞれ身にしみて感じることがある、そういうものではないか。先に副作用のある薬には、仮に効果が大きくても禁止令が出ることも書いた。この授業を考え出した教師の声が「涼しげでさわやか」と形容される種類の声だということも書いた。もういちど、僕は振り絞る声以外は信じないと書いておこう。
それにしても、この教師が生徒に課した課題は残酷ですらあったことを指摘したものは、僕が読んだものの中にはなかった。僕にはそちらの「不感症」の方が気にかかる。みんな事柄のセンセーショナルなことに振り回されて、根底にある一種奇妙な冷酷さは無視されているように感じる。この「冷酷さ」は「正しさ」に守られている。