「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりということをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず。明日ともしらず。おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにそ甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもんなかなかおろかなり。されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ。あなかしこ。」
浄土真宗の御葬儀では必ずといっていいほど、この蓮如の「白骨の御文章」が読み上げられます。これほど、世の無常をイメージできる文章はありません。冷静に死を見つめる蓮如上人は言葉の画家のようです。蓮如の最初のものは47歳のときに1461年に3月に書かれたと言い伝えがあります。蓮如はわざと信徒に対して、平易で韻律のある文章で、開祖親鸞の教えを解説したとあります。
今度、浄土真宗の御葬儀があったら、じっくりとこの「白骨の御文章」を目を閉じながら聴いて、視覚的にイメージしてみてはどうでしょうか?
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。 合掌。
浄土真宗の御葬儀では必ずといっていいほど、この蓮如の「白骨の御文章」が読み上げられます。これほど、世の無常をイメージできる文章はありません。冷静に死を見つめる蓮如上人は言葉の画家のようです。蓮如の最初のものは47歳のときに1461年に3月に書かれたと言い伝えがあります。蓮如はわざと信徒に対して、平易で韻律のある文章で、開祖親鸞の教えを解説したとあります。
今度、浄土真宗の御葬儀があったら、じっくりとこの「白骨の御文章」を目を閉じながら聴いて、視覚的にイメージしてみてはどうでしょうか?
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。 合掌。