橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

What is value? 「お金を使う」という事の意味

2010-09-16 16:56:33 | 日々のつぶやき
ふと、このブログのタイトルである価値とは何かを考えてみることにした。
こんなタイトルをつけるくらいだから、常にぼんやりと考えてはいるのだが、今回はちょっと文字にしてみようかと思う。

そして、まずは、モノの値段ということを考えた。

モノの値段はおおざっぱに言えば、

コスト<原材料費+人件費+運搬費+設備費+広告費+付加価値(ブランドとか有機無農薬とか)>+利益だ。

コストを細かく分解して行くと、原材料費は、そのまた原材料とそれを作った人の人件費が含まれる。もちろん設備費としての機械や運搬に使う車なども、それを設計したコンピューターも結局は人が作ったわけで、それをさらに分解して行くと、最後にそこに残るのは、天から与えられた自然界に存在する素材と人件費となる。広告費もしかり。

天から与えられた素材はその大元は無料である。そうすると、モノの値段は結局のところ人件費と付加価値のみ。付加価値というのは人間の脳みそが生み出すものだから、つまり、モノの価値とは、人間の労働と想像力の集積ということになる。

そーいうことか。

いや、自分で勝手に納得してしまったが、経済学をちゃんと学んでないので、何か重要な変数を忘れてないか、適当なことを言ってないか不安ではあるが、
どうなんですかね?この考え。

ただ、私がこんなことを思いついたのは、人間の労働の価値というものが、最近ものすごく軽んじられているからじゃないかと思う。

昔、経済学の授業で、モノの値段は需要曲線と供給曲線の一致するところで決まると教わった。「神の見えざる手」だ。
高校生のときは、暗記だけして意味なんて考えてもいないアホだった私は、確かにそうだろうなあと思っていた。

しかし、現在のデフレ状況を考えると、この「神の見えざる手」が人間にとって暴力とならない範囲で働くのは、「人件費の市場に格差が無い場合」に限るのではないか。つまり、世の中がグローバル化した現在、この理論はあてはまらないのではないかと思うのだ
最初に掲げた「モノの値段の内訳」のうち、付加価値の部分が低い生活必需品的なものは、どんどん需要側の圧力により値段が下げられて行くのだと思う。
だって、普通に考えて、ある程度の市場だったら、供給側より需要側のほうが圧倒的に人数が多いんだから、圧力だって大きいんじゃないだろうか。

学校で習った経済学からは、人の欲望とか、怠惰とか、身勝手などなど、人間の行動における特性の係数が見えてこない。欲しいvs売りたいというたった2項の要素だけだ。

しかし、その「欲しい」という欲求を分析して行けば、それは何かを満たす「欲望」もあれば、「怠惰を補う」という機能もあれば、「自らの想像力を補う」という機能などもあるだろう。
欲望:食べたい、着飾りたいなどなど
怠惰を補う:ご飯を作らずコンビニ弁当を買うとか
想像力を補う:ミュージシャンの作った音楽を買うなど

モノの値段が人件費と人間の想像力に集約されると書いたが、つまり、誰かの労働がだれかの労働負荷を助けたり、本来ならば自分でやるべき事を貨幣で誰かに肩代わりしてもらってる。

なんか私、当たり前の事を言ってる?

何で私が突然、こんな訳の分からない事をつぶやき始めたかと言うと、それは高橋源一郎氏がツイッターでつぶやいたルソーの「社会契約論」の一節に触発されたからだ。
高橋源一郎のツイッター@takagengen

以下は高橋氏が「議会制民主主義は奴隷制か?」と題して9月14日の午後0時から27回にわたってツイッター上につぶやいたものの一部だ

<ここから引用>
「民主主義」5・少し長いが、「人民主権」というものを、ルソーがどう考えていたか、引用してみる。

「市民たちの主要な仕事が公務ではなくなり、市民たちが自分の身体を使って奉仕するよりも、自分の財布から支払って奉仕することを好むようになるとともとに、国家は滅亡に瀕しているのである...」
「...[兵士として]前線に出兵しなければならないというなら、市民は[傭兵の]軍隊に金を払って、自分は家にとどまろうとする。会議に出席しなければならないというなら、市民は代議士を任命して、自分は家にとどまろうとする..」
「...怠惰と金銭のおかげで、市民たちはついに兵隊を雇って祖国を奴隷状態に陥れ、代議士を雇って祖国を売り渡したのである..うまく運営されている公民国家では、市民たちは集会に駆けつけてゆくものだが、悪しき政府のもとでは、市民たちの誰も、集会に出席するために一歩でも...」
「..動こうという気にならないものだ。誰も集会で決議されることに関心をもたないからであり、集会では一般意志が支配しないことが予測できるからであり、最後に自宅での[私的な]仕事に忙殺されるからである...誰かが『それがわたしに何の関係があるのか』と言いだすようになったら」
「...すでに国は滅んだと考えるべきなのである」。

だから、ルソーが考えた「人民主権」の原理は、「市民(国民)」が全員参加する直接民主主義だった。さて、どうだろう。ルソーは実現不可能な「机上の空論」を書いたのだろうか。『社会契約論』を読んでいると、そうは思えないのだ。

<引用ここまで>

ここで語られているのは、直接民主制と議会制民主主義の話だ。
議会制つまり代議制になった場合、市民は自らの怠惰から、金を払って公務を他人に委託する。そして最後には、自宅での[私的な]仕事に忙殺され、『それがわたしに何の関係があるのか』と言い出し、集会に出席しなくなる。そうなったら国は滅んだと考えるべきだとルソーは語る。

私が特に反応したのは、『怠惰と金銭のおかげで』ということろだ。

この話で、人々が払う金銭とは『税金』のことであり、ルソーは、市民全員で担うべき公務を、金銭で一部の人に任せる事によって、公務への関心が薄れ、国は滅びると論じている。
まさに今、この通りの事が私たちの国日本でも進行していると思う。

そして、その『怠惰と金銭』の関係は、政治の場面のみならず、現代の私たちの生活全てを覆い尽くしていると思うのだ。

このブログの前半で、ものの値段を決める価値は、人間の労働力と想像力の集約だと書いた。
それを貨幣つまりお金を媒介にして、他人に肩代わりしてもらっているのが、「経済」だ。

「政治」の場面で、自らの怠惰により、お金で誰かに肩代わりしてもらった公務には、人は関心を寄せなくなる。
それと同じことは「経済」でも言えるのではないか。

例えば、自分でやろうと思えばできる食事の準備を怠って買ってきたコンビニのおにぎりの質やその制作過程に人はどのくらい関心を寄せているだろうか。
「仕事が忙しいから」と、食事を作るという労働を誰かに肩代わりしてもらっているのが、この場合のコンビニおにぎりだ。
別に、コンビニおにぎりが悪だというのではない。労働をお金で肩代わりしてもらった人が、どのくらいそのことを意識し、そのお金の使われた先の有り様を考えるだろうかということだ。

現代の大量消費社会を生きる私たちは、政治の場面にしろ、暮らしの場面にしろ、「お金」によって自分の様々な責任を誰かに肩代わりしてもらっている。

肩代わりをしてもらうということは、他の人がやることによって、自分が知らないところで生まれるかもしれない負の利益も被る可能性があるという事だ。
お金を払って肩代わりしてもらった時点で、私たちは正の利益とともにそうした負の利益の可能性もしょっていることを忘れてはいけない。

「お金を使う」とはそういうことなんだなあと、ルソーに再認識させられた。

「お金を使う」とは、自分が把握できるはずの事象を人にまかせることでもあるから、何か想像もしない事が起こりうる可能性も考慮に入れなくてはならないのだ。
「お金を使う」ということは、便宜やモノを得るだけではなくて、お金の使われ方をチェックする責任も生まれるんじゃ無いかと思う。

モノの値段を細分化して行くと、最後は人間の労働と想像力のみに行き着くと考えたが、「モノとお金の交換」を単なる物質の交換と考えることが、今の政治経済を行き詰まらせているような気がする。

経済学の専門家の方が読まれたら恥ずかしくなるようなことかもしれないけど、せっかくいろいろ考えたので、思いつくまま書いてみました。
おつき合いいただきありがとうございました。

私のブログの基本は、こうした考え方のもとに、さまざまな事象を紹介することです。
今後、スタイルも早いうちにリニューアルしてものづくりの現場なども紹介したいのでよろしくお願いします。
そこにはどういった価値が含まれるのかを考えながら、人が作ったモノを愛して行きたいと思います。
また、それと同様に、自分たちが担うべき、政治も考えて行きたいと思います。
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代表選に思う~現代日本の「世論」とは「愚痴」である

2010-09-16 00:21:47 | 国内情勢
民主党代表選が終わった。
小沢一郎は負けた。

党員サポーターからの獲得票の差が予想以上に大きく一瞬愕然としたが、
しかし、これは各選挙区ごとに、1票でも多かった候補に1ポイント入るという総取り制になっているからで、実際には菅直人6に対し小沢一郎4くらいの割合で票を獲得している。

多分、こんなものなのだろう。
とはいえ、あの演説はちょっと身震いがした。
あんな力が入って、中身が見える演説って近年あまり聞いた事が無い。
でも、あの演説で心変わりする程、議員たちもナイーブじゃなかった。
それよりも、党員サポーターこそ、あの演説聞いてから投票すべきだった。
それほど、今回、小沢一郎の気迫は凄かったし、政策を語ると言う点で、近年の政治家の中で最も有権者に伝わる言葉を持っていたと思う。

いま一度、活字で読んでみても良いかもと思い、書きおこしを探したら、産経MSNがやってくれてました。
産経MSN小沢一郎代表選意見表明全文


しかし、この2週間、小沢一郎がひとり気をはく一方で、
会見の仕切りに登場したり、小沢派としてテレビに登場する取り巻きを見ていると、かなりしんどかった。
小沢一郎という人は、彼にぶら下がろうとする人ばかりを周囲に集めてしまうのではないかとどんよりした。記者懇談会に小沢自身が遅れてやってきた時の取り巻き議員の場の繋ぎ方などあまりに心もとなくて、これイメージダウンだろと心配になったほどだ。

彼らは小沢一郎が作ろうとしてる未来の日本の姿を本当に共有しているのだろうか?

高野孟氏が言っていた、小沢の人間不信とかニヒリズムとかってこういうところからきてんだろうか?
自分と同じレベルで議論できる人間がいない。だから、全て自分で考え仕切る。取り巻きは雑務をやってくれれば良い。数だけ集まってくれば良いってことか?それで数の論理になるとしたら悲しいなあ・・。
小沢のニコニコ顔からはそうは思えないけどね。
取材してないから印象でしかない。ほんとのところはわからない。

小沢一郎の言葉に嘘はないように見える
小泉元総理の意味無しプロパガンダとは違う真摯さがある気がするのだが・・・

今のところ、小沢一郎の古い体質といわれるものが、彼の政策に対する私の共感を覆すほど大きなものなのかどうかの判断がつかないままだ。

まあ、今日、政府が円高に対し為替介入した事からも、
小沢一郎が代表選ではっきりモノを言ったことの意味はあったみたいだから、今後の民主党にとって、この代表選はよかったんじゃないだろうか。
この為替介入がどのくらい効果があるかは未知数ですが・・。


一方で、メディアは捩じれ国会だの、今後の政界再編だの
またまた捕らぬ狸の皮算用で、早くも先のそろばんを弾いている。
今回の代表選でも、マスコミの影響力がまだまだ大きいことはよーく分かったから、世論誘導にならないように気をつけてくださいね。とかなんとか言いたくなるけど、
問題はそれだけじゃないんだよね。

メディアだけでなく、受けても含めて、日本人が全体的に自分の力で物事を考えなくなっていることが問題なのだと今回つくづく思った。

今回の代表選の各候補支持の理由を明確に論理的に語れる人がどれだけいるだろうか?
首相が3ヶ月で交代するのはなぜダメなのか?
小沢一郎の「政治と金」の問題とは具体的にどういったものなのか?
小沢一郎に政策がないというけど、「日本改造計画」読んだのか?

人々は、日々溢れてくる情報洪水の中で、自ら調べる事の必要性を感じなくなっている。そして、麻痺して情報の質を問わなくなった。だからだろうか、メディアの中に、自分で検証するための「材料」を求めるのではなく、用意された「答え」を求めるようになった。
言いかえれば、考えるということに「怠惰」になったような気がする。

そのくせ、人間には、頭がいいと思われたい、もっともらしいことを言う人だと思われたいという欲求がある。

例えばテレビの街頭インタビューでマイクを向けられたとしよう。
「実は、いろいろ迷う部分もあるのだが、ダラダラしゃべっても、よくわからない事を言ってる人と思われるに違いない、それってバカっぽいよな。」
そんな風に思った人は、ある人は回答を拒否し、ある人は、とっさに、どこかで誰かが言っていたもっともらしい言葉を探す。
良いとこ取りのコピー&ペースト。テレビに出てたあの有名人の分かりやすい一言を探す。とりあえずは、この大変な時に代表選なんてやりやがってと、ダメな民主党を批判してみたりする。

それはテレビカメラの前だけじゃなくて、友人の前や、地域の集まりや、近所の井戸端会議でも同じだ。自分が一生懸命考えたのではない、一見、見栄えのいいコピペ発言が横行してはいないか?
そして、自信が無い人や、考え中の人が黙っているうちに、マスメディア的論調はどんどんコピペされて拡大する。

「見栄」と「怠惰」
これが、現在の日本を覆って、ダメにしている根本的な問題ではなかろうかとつくづく思う。

でも、一方で人間は自らを怠惰だとか見栄っ張りとか思いたくないから、無意識に、そんな自分の態度に対する言い訳を見つけようとする。

そんな言い訳の受け皿となるのが「世論」なのかもしれない。
みんなが言ってるから。多くの人が言ってるから、は最強の保証だ。

「世論」にすり寄る事で安心し、深く考える事を放棄するのだとしたら、
たった数百や1000程度の世論調査をあたかも日本国民の民意のように振り回すのは、ある意味、社会への暴力ではないのだろうか。

ちょっと話は飛ぶが、以前テレビマンユニオンの村木良彦氏の追悼番組の中で「あなたにとって幸せとは何ですか?」という、街頭インタビューのみの番組が紹介された。そこでマイクを向けられた人の言葉は、たどたどしくはあるもののそれぞれがそれぞれの色を持っていた。それは、あらかじめ「答え」が用意された質問ではないからだろう。

大抵、昨今の政治がらみの街頭インタビューというのは、すでにどこかで誰かが答えたことのある質問ばかりだ。

漠然と欲しい答えを想定しているメディアと、 適当に頭の良さそうなコメントを言いたがる国民と、その共犯関係が顔のない「世論」を作って行く。


今回の代表選騒動からもう一点感じることがある。

物事を自分の身に引き寄せないで、いわゆる「世論」にコレだけ多くの人がすり寄る事ができるというのは、不況だとか、生活が大変だとか言ってても、日本はまだまだ余裕があるんじゃないかということだ。

自分の明日の食い扶持よりも、小沢一郎の「政治とカネ」の問題を最重要争点として受け入れられるほど、日本人にはまだ理想的な政治を追い求める余裕があるのではないか。
大いなる皮肉を込めてそう思うのだ。

そもそも、今回菅さんが選ばれた主な理由の一つが、首相が3ヶ月で辞めるのは世界から相手にされなくなるからとか言ってるが、それこそ暮らしに余裕のある人の危機感の無い優等生的な意見だ。次の首相が「日本は本気だ」と真顔で言えば、世界だって対応は変わってくるはずだ。それは就任期間の問題ではない。

日本の「世論」というやつは、時間もお金も余裕があって危機感が無くて好きな事言っていられる絶対安全地帯な立場の人の言説に引きづられすぎる。

誤解を恐れずに言えば、「最小不幸社会」と言うのなら、政治は暮らしに余裕の無い人の声だけ聞いていればいいのである。

なのに、マスメディアを通して流れてくるのは、まだまだ余裕のある人々の「愚痴」ばかりである。本当に大変な人々は、マイクが突き出されるような場所にはいない。「叫び」はブラウン管からは流れてこない。


現代日本の「世論」とは「愚痴」である。

そして「愚痴」とは、利己的な考えから生まれるものである。
政治を考えるとは自分の置かれた立場から「公共」を考える事だ。
そしてそこから生まれた意見の集積が世論であるべきだ。

瞬発力だけで飛び出す「愚痴」ではなく、
ゆっくり自分の頭で考えてた意見で世論を形成したいもんだ。

最後になってしまいましたが一言
。もちろん深くものを考えている方はたくさんいると思います。街頭インタビューでも真摯な意見を耳にします。また、このブログをここまで読んでくださった方が、自分でものを考えない人であるはずがない。
今回のエントリーはそこがジレンマなのです。
さらには、私こそ偉そうな事書いて、実は論理が雑駁という、その事実こそ自己矛盾ではないかと頭を抱えるのでした。
日本改造計画
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