先日、「よみがえりのレシピ」という映画を見た。山形県鶴岡の在来野菜の話。とてもよかった。その土地の風土の中で長年作り続けられてきた在来野菜。有名なところでは京野菜とか、個別には下仁田ねぎとか亀戸大根だとか。随分種類が減ってしまったけれど、在来野菜を守る活動は最近では東京でもぽつぽつ行われている。しかし、焼き畑農業のいまだ残るここ鶴岡の農業と作られる野菜の美しさは格別で、美しい映像に涙さえ禁じ得なかった。
美しいのは野菜の姿だけではない。人々が素晴らしい。
たまたまなのかもしれないけれど、在来野菜に興味を持つ山形大学の准教授がいて、在来野菜のおいしさに惚れ込んだ気鋭のイタリアンのシェフがいて、在来野菜を漬け物にしたい地元漬け物会社の社長がいて、彼らの野菜に対する愛情が、ひっそりと細々と在来野菜の種を守るべく栽培し続けてきた農家の老人たちを呼び寄せることになった。今まで日の目を見ずとも、栽培が面倒でも、絶やしたくないと、たった数人の老人たちが作り続けていた在来野菜が、准教授やシェフや社長の熱意で日の目を見た。奇跡のような出会いだと思った。
この奇跡のような出会いはやはりたまたまではないのかもしれない。そう思ったのは、在来野菜を作り続けてきた地元の老人たちの言葉の一言一言があまりにも美しかったからだ。ネタバレになるからここでは具体的な言葉は書かないが、是非映画を見て、一人一人の農家の人の言葉を聞いて欲しい。どんな詩人も及ばない、からだからにじみ出る本当の言葉をそれぞれが語っている。鶴岡の農家の人はすごい。その言霊にいろんな人々が呼び寄せられたに違いない。もちろん、他の土地にだってそういう人はいるとは思うけれど、そういう人が孤立せず、最終的に人が集まり活動の輪となっていったのは、たまたまではなく、やはり鶴岡というところの風土のなせる技なのではないかと思う。行ったことはないが、画面を見てそう感じた。
あと、目から鱗だったのは、イタリアンのシェフの存在。
ああやはり、表現者がいてこそだ。この在来野菜復活プロジェクトが進んだのは、彼の作る料理の力が大きい。もちろん、彼の力だけではない。野菜と彼を繋いだ大学の先生の存在や、野菜そのものの力があっての料理である。多分シェフ本人もそう言われるだろう。けれど、在来野菜の良さを何も知らない第三者に認めさせる、納得させるという点において、この料理のおいしさとビジュアルは最強である。私はまだこの料理を食べたことはないけれど、映画の画面を見ただけで、これは鶴岡に行かなければ!と思った。最近、ミシュランとかグルメとかいう言葉にはちょっと懐疑的である自分がこの料理にはすごく食指が動いた。シェフは味のプロであり、説明のしにくい「野菜の味」についても、わかりやすく説明してくれる。その説明が、映像で見るだけの料理に命を吹き込む。見ただけでこれだから、実際食べておいしければ、より一層、在来野菜というものに対する信頼(信仰というべきか)は高まるだろう。
私の田舎にもこういうスーパーシェフがいればなあ・・・と思った。
地方に特産物があったとしても、それが一品種でなんとかなるほどの特徴的なものでない場合、鳴かず飛ばずなことが多い。野菜は多分そういうものだ。そのおいしさや特徴を理解し、さらに誰にもわかるように表現してくれる人がいない限り、その産品の良さは広くは理解されない。「誰にもわかるように」というところが難しい。山形の在来野菜も漬け物屋さんが漬け物を作っている段階ではなかなか理解されなかった。やはり地味なのだ。派手なのがいいわけではないが、一旦消えかけたものを復活させるというような場合には、発破も必要なのかもしれない。
私の田舎は、かつては水揚げ西日本一といわれた漁港とみかんの町なのであるが、今や漁港は見る影もない。ただ聞けば、鱧の水揚げは日本一とかそうでないとかのレベルで、水揚げされる雑魚の種類の多さも有数なのだそうだ。しかし、あまりそれは知られていない。地元にそれらの良さを理解し、素晴らしい料理に仕立ててくれる料理人がいれば・・・。
地域振興ということで考えれば、シェフは在来野菜プロモーションのプロデューサーとディレクターを兼務しているような存在だ。そしてそこに、歴史的、科学的裏付けをもたらすブレーンとしての「大学の准教授」という存在。言い方はいやだけれど、権威の力でもある。さらに、最初は売れずとも地道に在来野菜の漬け物を作り続けた「社長の野菜への愛情」はスポンサーのようなもの。そして、こうした人々の熱意が、細々と心もとなく在来野菜を守ってきた農家の人々=主役の心に火をつけた。
一部の人だけが張り切っても地域全体が盛り上がることはない。また、儲けだけを考えたら多分地域振興は失敗する。鶴岡では、いろいろな立場の人が自分の持ち場で真摯に仕事と取り組んでいた結果が何かを呼び寄せて、今回のような出会いに繋がったのだろう。多分、私の田舎も、シェフだけ呼んできたところで上手くはいかない。本気の人が集まった時に生まれるパワーというものをこの映画は見せつけてくれた。
そんな鶴岡はまさに地域振興のお手本なのだが、これをマニュアル化することはできない。在来野菜と同じく、地域振興の方法にもその土地土地に合った形があるはずなのだ。シェフが重要とは思うが、今回登場した奥田シェフが私の田舎に行ったからといって成功するというものでもないと思う。
すべては自分の地元を愛するところから始まる。すべてを愛せなくとも愛せる部分を見つける。そこからしか地域振興は始まらない。今時、地元を愛するなどというと、愛国心と結びつけた変な方向にも逝きかねないので、あえていえば、愛するとはその土地の風土の良いところを愛でるくらいの意味で、英語で言うパトリオティズム、愛郷心。景色や食べ物など具体的な風物を愛することで、決して国家を対象とするナショナリズムではない。つまり愛するものも中央集権ではなく、自分の身の回り、地域それぞれであるべきなのである。
今の時代、そうなっていないから、地域振興というものがなかなかうまくいかないのだと思う。地方から東京に来た人間が言ったのでは説得力がないかもしれないけれど、東京とて21世紀はそれぞれの町が地元の魅力を磨くことでしか生き残って行けないと感じている。
地域振興は自分の地元の良いところを見つけるところから。
そんなことを考えさせられた「よみがえりのレシピ」であった。
ところで、最後になったが、種(たね)の話をしてこの長い投稿を終わりたい。
今、農業の世界ではF1種の種というのがじょじょに問題視されはじめている。多くの農家では、F1種という、一代限りで子孫を残せない種で野菜を栽培し、次の年はまた新しく種を種屋から買っている。品種改良によって安定的な収穫は得られるかもしれないが、その種からは二代目は生まれないか、生まれても一代目のような形状にはならないらしい。F1種とは、一代のみの安定的な生産を目指して品種改良により生まれたもので、二代目以降は勘案していないのだそうだ。そうすることで、農家はまるで小作のように自立性を奪われ、生産を種屋に依存することになってしまうという。TPPで農業に関して何が問題だといって、一番はこの「種の問題」なのではないかと思う。こうした農業のあり方はアメリカが本場であり、TPP受け入れによって、世界的な種屋に日本の農業が依存してしまうことである。TPPの問題は一般に考えられているような、単に生産物の輸出入の問題だけではないのだ。いざという時、種を売ってもらえなければ、日本は農作物を作ることができなくなってしまうということにもなりかねない。軍備よりも何よりも必要な安全保障は食料自給である。映画ではその辺には触れていないが、こちらの問題も、緊急に考えるべき大問題なのだ。
「よみがえりのレシピ」は12月15日から東京渋谷アップリンクで上映が決定。来年は各地で公開するそうです。
詳しくはこちらを。
「よみがえりのレシピ」公式サイト http://y-recipe.net/