江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

カッパ、スッポン、水蛇での死者の違い  「善庵随筆」

2023-02-25 22:51:56 | カッパ

カッパ、スッポン、水蛇での死者の違い

                         2023.2

古事類苑の動物部七には、カッパ、スッポン、水蛇での死者の違い(善庵随筆)が、記載されている。

以下、本文
水中にて人をとり殺すものに、三つある。
一つは、カッパで、河太郎とも言う。
・・・
いまこの三つ、河童、鼈(すっぽん)、水蛇を比べるてみよう。
河童にとられたものは、口をあけて、笑うようである。

水蛇にとられたものは、歯をくいしばり、向こう歯が(上の前歯)が二枚かけ落ちている。
スッポンのは、わき腹あたりに爪を入れられて痕があって、死ぬ。
これでもって、分別できる。
しかし、いずれも肛門は、開いている。
世人は、肛門より入って、臓腑を食べると言っているが、間違いである。
すべての溺死は、肛門が開くものである。

何故かと言うと、水死するときは、口から入った水が、肛門から出る。それで、肛門が開くのだ。


「古事類苑」の動物部七、「善庵随筆」より


猫が嶽の妖描  「土佐風俗と伝説」

2023-02-25 22:40:52 | カッパ

猫が嶽の妖描

             2023.2

今は昔 香美郡奥西川(おくにがわ)村に猫が嶽と言って、断崖がそそり立って、高さは百間に達し、古
木老松が生い茂げり、かって人跡の至ったことがない難所があった。

古(いにしえ)よりの話に、ここに猫王と言う大猫が棲息し、その大さは、三歳駒のようであった。
数多くの小猫がいて、その手下になっていた、と言われていた。

今より一百五十年(この書が出版されたのは、大正14年、1925年)前の昔の明和九年(1772年)に、隣村の富家(ふけ)村の男で与三右衛門と言う二十五六歳の元気な若者が、この嶽下(たけした)を通った。
ふと仰ぎ見れば嶽の岩角に梟(フクロウ)が一羽止まっていた。
もともと、与三右衛門は狩猟好きで、ちょうどその時猟銃を一挺、肩にかけていた。
それで、これ幸いと、猟銃を取下ろし、ねらいすまして打ったが、美事に命中した。
フクロウは落下したので、取りに行ったが、梟ではなくて蝦菜(えびな)を束ねたものであった。
奥三右衛門は合点が行かず、と上の方を見あげれば、梟は傍の木の枝にいた。

更に一弾、打ったが、又命中して、落ちた。
それを拾いあげれば、鞠(まり)のような木片であった。

与三右衛門も少し不思議に思い、こんな場所に長居は無用と、元来た道を顧りみると、梟は依然として元の岩角にとどまっており、何事もなかったかの様子であった。

世人は、このことを聞いて、これは猫王配下の若猫等が退屈まぎれのいたずらに、ちょっと、人を化かしたものだろう、と言いはやしたとのことである。

より


平田の怪猫  「土佐風俗と伝説」

2023-02-25 22:38:17 | 化け猫

平田の怪猫

                     2023.2

今は昔、幡多郡平田村(高知県宿毛市平田町)に甚六と言う猟師がいた。

その家は、一匹の半面斑(ぶち)の大猫を飼っていたが、大変年を取っていたので、色々な怪異があった。

ある年、甚六の妻が病死したとき、夜伽に際しその猫が躍り出したので、早速その猫をつないでおいた。
すると、野送りをする時一天にわかにかき曇り、雷電風雨がたちまちに起こって、人々は耳をおおって地上にふした。
不思議にも、その棺が空中に浮き上がろうとした。
そこで導師の寺山寺の高僧南光院は、「奇怪なり」と、ただちにその棺の上にのぼり、祈念黙祷(きねんもくとう)した。
この時、一団の黒雲が来て棺を取り巻いたが、南光院は声高らかに仏名を唱え、百八の念珠を高く振るって発止(ハッシ)と打ち止めた。
やがて、一天がらりと晴れ渡り、何の苦も無く棺を埋め終った。

その後、家に帰ったが、不思議なことには、今迄つなでいあった大猫は逃げて、井戸の辺(あたり)で手拭を被って踊っていた。
そして、背中には数十の珠数痕があった。

その後、甚六は原見(けんみ)の原と言うところに、ぬた待ち(狩猟)に行こうと、銃丸を鋳造した。
そして、一つニつと出来上りを数えながら十二個を用意したふりをし、もう一つの弾をかくし持った。
支度を調のえ、その夜、狩り場に赴いた。

その夜、月が明るかった。
猪や猿も集まったが、不思議にも皆奇声を発して逃げ去った。
たちまち、一匹の怪物が牙をむきだして喰いかからんとしたので、すぐに鉄砲を打った。

一発が怪物の眉間にあたったかと思うと、かちんと音がしてして跳ね返ると、「一つ」と怪物がうなった。
二発目も同様に、「二つ」とうなった。
遂に三発四発より十二発に及ぶと、怪物も「十二、もう弾があるまい」とうなった。

甚六は、無念と、隠し持っていた最後の残りの一発を打てば、美事に命中した。
ふるい動く音がして、怪物は姿を消した。
どこまでもと、血の痕をたどって行くと、遂に我家に帰りついた。
家には、十二発の弾痕のある鍋蓋が地面に落ちていた。
床下には、かの半面斑の大きな飼猫が倒れていたそうである。

「土佐風俗と伝説」より


河童の綱曳き と 獺祭(だっさい)  「伊那の伝説」

2023-02-25 22:02:13 | カッパ

河童の綱曳き と 獺祭(だっさい)

                    2023.2

これと同じような話が、伊那富村にもある。
昔ここの百姓が、ある日、飼い馬を天竜川の川端へ
放しておいた所、河の中から河童が手をだし、馬の手綱をつかんで水の中へ引き込もうとした。
しかし、なかなか馬が動かないので、河童は考へて今度は手綱を自分の胴へぐるぐると巻き付けて、力ーぱいに引つ張った。
馬も水の中へ引かれては大変と、これも一生懸命に踏みとどまった。
ここに、河童と馬との綱曳きが始まった。
そのうちに馬の力が勝って河童は水から外へ引きだされてしまった。
馬はそのまま家の方へ向って走りだし、河童は胴へまき付けた手綱を解く事も出来ず、引きずられて行った。そして、とうとう百姓家の表まで来て、そこで生捕りとなってしまった。
河童は、涙を流して、命ばかりは助けて下さいと頼んだ。
百姓も憐れに思い、綱を解いて河の中へ放してやった。
それからして毎日、朝になるとその百姓家の前に沢山の川魚が並ぺべてあった。

これは、河童が危い命を助けて貰ったお礼のために、持って来たものであった。

「伊那の伝説」昭和8年、岩崎清美著、山村書院、より。

訳者注:これも、獺祭であろう。