江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

幼女の妖かし(原題:妙年の河伯)   三州奇談後編巻之八

2024-09-16 20:00:00 | カッパ

幼女の妖かし(原題:妙年の河伯)   三州奇談後編巻之八

                  2024.9

新川郡滑川(富山県滑川市)は大きな郷であるが、その名称である滑川の由来は、わからない。
もしや青砥左衛門が付けたのであろうかと尋ぬねると、こう答えが返ってきた。

滑川は古い名であって、元来は川があった。今は海が入って来て、その水源である中河原村の小清水に(名残がある)近い。わずかに水が湧出している。昔は小浜松と言ったが、川を隔てて、両側に寺と神社があったそうである。今は町名(まちな)のみに残っている。
浜沿いの地名は伏木(ふせき:富山県高岡市)と言う。伏鬼千軒の号(名)が残っている。賑わった湊(みなと)であったそうである。
今の放生津(ほうじょうず:富山県射水市)の方へ移った伏木と言うのは、本来はここであったそうである。今の地(名は)は、(昔は)辰尾(たつお)であって小川滑川の号(名)からかわったのではないかと思われる。
町の東に櫟(いちい)原の神社(富山県滑川市)がある。延喜式にある由緒ある式内の神である。辰尾の古名は刀尾(かちお)だそうである。
これ等の号(地名)が皆々変じて地区(郡の一部の)名の滑川を総名と
するのも、又因縁があると思われる。

西には、水橋の渡りがある。

ここは常願寺川の末流であって、甚だ深く、川には所々合流地点があり、あまが瀬と言う渡りがある。
義経が奥州下りの頃、畑等右衛門尉と言う者が、この渡り瀬を教えたそうである。今に至っても、百姓の畑等清兵衛と言うその子孫がいる。今も、飛脚などがこの家に渡りの道筋を教わって川を打ち渡り、舟が難船するのを免がれるそうである。世の中には飛鳥川のように、水路が変わってしまうのもあるのに、数百年の今日迄、この川の淵瀬が変わらないのも、又不思議なものである。それならば、水中に霊(神様や妖しいもの)がいても怪しむに足らないであろう。湘霊(しょうれい:中国の湘江の神様)鼓ヒツ?の事を聞けば。舜の二女。猶
 水底にヒツ?を嗚らせるとかや。左もあるべし。

越中は大きな川が多い所である。俗にこんな事が言われている。時々、深い淵から鈴の音が聞こえてくる。小児が踊る時に袂(たもと)に鈴をいれて嗚らすのに似た音がすることが多い。
確かめようもないので、誰も見たことがない。

そうではあるが、安永四年八月の事である。滑川の南有金村(滑川市)の傍に今井川と言う川がある。
これは這槻(はいつき)川の枝流である。
高月村(富山県滑川市)の専福寺の和尚は、弓の庄柿沢の円光寺(富山県上市町)の和尚の二男である。早朝、用事があって柿沢より専福寺へ帰ることがあった。この今井川のほとりに来た。朝六半時頃の事である。川に来て向う側を見れ


ば、対岸に一人の小さい女がいて、顔が合ってしまった。その顔色の白いこと、雪の如くで光があった。はなはだ美麗であって、只雛人形のようであった。身長は二尺余り(60センチ余り)で、髪のかざりは常人のようで、簪をさしていた。ゆっくり歩いて立っていた。衣服を見るに、多くの色彩があって見事であった。
しかし、普通の人間の織物とは見えなかった。
両脚は、大きく露出していて、着物は腰の廻りまでであると見えた。
白い膝があらわに出ていた。
手元袖ロのあたりには、網の如き物が下がっていて、手も又大変に白かった。
様子は、人間と異ることなく、ただ大変に背が低かった。
専福寺の和尚と顔を見合すこと度々であった。
笑みを含んでいるようであった。

それで、専福寺の和尚は、全身から汗が出て、ふるえが止まらなかった。
暫くして、岸へ商人が二三人連なって来た。この妖しの物は、人の声を嫌がったのであろうか、暫く川縁にたたずんでいるかと見えていたが、楊株(やなぎかぶ)の間より水に入っていった。
音なく消えたようで、又再び見えなくなった。
専福寺の和尚は、暫く立去りかねたが、ようやく迎えの者が来るのを待って、川を渡り過ぎて寺に帰った。
寺の下僕が、和尚の顔色が悪いのに驚き、色々薬を調え養生をさせた。数日にして本復したとの事である。
この事を櫟原(いちいばら、いちはら)(滑川市)の神主なる人に尋ねると、このように答えた。
「あれは、きっと河伯(かはく)であろう。」と。
何人かにいろいろ聞き合せて、多分、河伯(かはく)であろうと決定した。思うに、これは河伯水霊の類(たぐい)にしては大変に幼い子ではないかと思う。湘霊(湘江の神様、妖怪)が、ヒツ?を鼓することを、思い合わせれば、これ(鈴の音)等は小女にして踊り遊ぶのも、納得できよう。
さては、淵底にややすれば鈴の音がするのも、若しやこれ等の河伯が遊びたわむれて歌った時なのであろうか?
郡の名の新川に比して見れば、この若い「新」しい河(川)伯も新川の名を、付けられているのも又理(ことわ)りと言えようか。

訳者注:
これは、「三州奇談後編巻之八」にある「妙年の河伯」であるが、内容的に、河童(河伯)の話ではない。河童とは別の妖怪であろう。
この三州は、加賀、能登、越中の三国(加賀藩領)を指している。この場合は、三河の国ではない。


江戸時代の入れ墨の刑  図示(風俗画報)

2024-09-16 12:44:23 | 江戸の人物像、世相

江戸時代の入れ墨の刑    図示

                                                    2024.9

「風俗画報」明治二十五年十二月十日(東京、東陽堂)には、江戸時代の軽い刑罰と、それに伴う入れ墨についての記述と図が示されている。
「風俗画報」は、明治時代に発行された雑誌です。
江戸時代の様子を記録する、というのがこの雑誌の主旨の一つです。

以下、本文。

徳川時代のお仕置き  蓬軒(この文の作者らしいが、どんな人かは不明)

徳川幕府の定めた法令としては、百箇条(百ヶ条)が、知られている。当時、実に重要なる法令であって、主に刑事上の事を規定したものである。
この規定は徳川祖宗の始めたものであった。
昔は、罪人の処刑があるごとに、将軍みずから筆をとって、百箇条中に訂正追加をした、と言う。
これは、官吏の執法の当否を検証するの意であろう。
しかし、八代将軍吉宗公が、紀州より入って将軍位を継ぎ、政務を励むに及び、(享保、寛保、延享の頃)寺社奉行 牧野越中守、石河土佐守 等に命じて百箇条を増補した。
世に寛保律と言うものが即ちこれである。

その後、十一代将軍家斉(いえなり)公の治世に至り、老中松平越中守(白川楽翁公)更に、法令を増補した。
これを寛政律と名付けた。

以上の二回の改革は、思うに、
人間社会が日に日に進んで、人々の行動が次第に煩雑となり、
百箇条にては、事にあたって、不都合を感じることが多かった故であろう。
しかし、幕府は、最後まで祖宗の範を脱しえなかった。
当時の増補は、もとより百箇条の精神を失わぬ事につとめ、かつまた、従来の不文律であった物を百ヶ条中に記入したのに過ぎない事である。

よって、今これを古老に聞きただし、列記して当時の実況を知るの便に供する。


入墨 入墨は附加刑であって追放・敲(たたき)等の正式な刑に属している。
ただし、江戸は伝馬の牢屋敷にて執行し、入れ墨が乾くまで、入牢を申し渡す。

江戸 京都 大坂 長崎は、享保五庚子年(1720 かのえね)二月十七日制定
増入墨は        安永六丁酉年((1777 ひのととり)一月三十一日
人足寄場は       寛政五癸丑(1793 みずのとうし)年十一月五日
伏見 奈良 駿府 甲府は寛政三辛亥年(1791 かのとい)七月二十九日
山田 堺は       寛延四辛未年(1751 かのとひつじ)四月十九日
佐渡は         賓暦十庚辰年(1760 かのえたつ)二月十四日
日光 関東郡代は    寛政三辛亥年(1791 かのとい)三月八日

敲(たたき) 敲は正式な刑罰であって軽重がある。
軽い罪には、五十回、重い罪には百回をたたく。


刑は、江戸では、伝馬町の牢屋敷の表門外にて、執行する。
検使は御徒目付御小人目付、立合は町奉行与力同心。
 

刑罰の対象(百箇条の一部)
〇商品の代金を請け取ったが、品物を渡さない者
○品物を二重に売った者
○取次品を質入れ、又は売り払った者
○金銭物品を横取りした者
○奉行人、手元にある品を持ち逃げした者
○奉行人が、取引先から金銭物品を持ち逃げした者
○巧み候儀も無之軽く取除け致し候者
○給金を請け取ったが、主人の方へ引き移らない者
○軽い盗みをした者
〇風呂屋にて、衣類、着替を盗んだ者
○盗んだ物と知りながら、それを預った者
○隠した物と知りながら買った者
○辻番人の巡回地区内で拾った品物を、届け出なかった者
以上、金額として十両以下(品物は、代金として十両以下)の場合は、入墨の上、軽く敲く。

(未完)(以上は、条文の一部)

以上。


「風俗画報」明治二十五年十二月十日(東京、東陽堂)には、図があるので、それを示した。