「人に害を与えようとして、結局自分に返ってくるような行為をすること」を『天に向かって唾を吐く』と言います。自分は決してそんなことはしてないと思う人は多いと思いますが、知らないうちに、そういうことをしてしまっていることは少なくないと思います。
そういう時に、吐いた唾が自分に返ってくるのは、実はラッキーなのかもしれません。それで、初めて自分が『天に向かって唾を吐いていた』ことが自覚できるからです。仮に、吐いた唾が自分に戻ってこなかったとしても、おそらく、いつかは全てまとめて自分に返ってくるのかもしれません。
そんなことになるのなら、唾を吐くたびに、自分に返ってきて痛い目に合う方がずっといいでしょう。そのたびに学ぶことができます。全ては必ず自分に返ってきます、たぶん。
無敵の経営(北川八郎著 サンマーク出版)より、
『若いときにはなかなか感じられないことですが、四十代後半から五十代前半あたりになってくると、人生の前半に自分が行ってきたことの「お返し」を受け取るようになります。どのようなことを思い、考え、言葉を口にしながら行動に移してきたのか…良きことも悪しきことも、これまで成してきたことが五十代以降の人生を形づくっていき、人生という道で見える景色を決めていきます。(中略)
『私たちは人生の前半に成したことを、人生の後半ですべて受け取る」
今ある境遇も状況も、人に対する感情や対応、自分の考え方や健康まで、すべてそれまでに自分がやってきたことが、おもしろいくらいに人生の後半に反映されます。
だからこそ、なるべく早い時期にその真理=法則を理解し、改められるところは改めて、人生の後半を過ごし、そのうえで経営にあたっていきましょう。』
『歎異抄』第三章に、『「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」しかるを世の人つねにいわく「悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや」この條、一旦、その謂あるににたれども、本願他力の意趣に背けり。その故は、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心、かけたる間、弥陀の本願にあらず。』とあります。
ここでいう善人は、手術室でいうならば、自力作善、すなわち自分の技術や努力を励みとし何とかすれば何とかなると思っている人のことです。手術が上手くいったときは、それは、自分が頑張ったからだと思い、周りの人や手術室の神様が助けてくれていたことを気がつくことはありません。「自分の力で手術ができた」と思っているならば、それは単なる思い上がりであって、実際には、自分のできること、したいこと、しなくてはならないことだけを(周りの人や手術室の神様に)させてもらってきたことを自覚しなければなりません。
逆に悪人は、「他力をたのみたてまつる」人であり、自分のしてきた手術が実は『おかげさま』であったということがわかっている人のことです。(上手くいかなかった時に他人のせいにしてしまう人のことではありません。そういう人は自分だけが上手くやっているのに他人が邪魔してると思っている善人だといえます。)
善人であるならば、自分でも気がつかないうちに毒を吐いて周りの人を傷つけてしまうかもしれません。自分を省みることがなければ、いつか手術室の神様から『お返し』をいただくことになるのでしょう。悪人になるのは、実は本当に難しいのです。