吉村昭の「間宮林蔵」を読んでいる。間もなく読了する。
先に少し報告したが、伊能図の北海道部分は最終的に間宮林蔵の測量が採用された。
間宮林蔵は間宮海峡の発見者として知っていたが、詳しいことはほとんど知らなかった。
茨城県つくばみらい市(旧伊奈町)に「間宮林蔵記念館」があり、1度行ったことがある。
加えて、シーボルト事件に絡み、伊能忠敬の先生の息子を訴えたと、嫌われている。
その経過を知ってみると、少々違うことがわかるが、結果的にすっきりしない部分はある。
農民出身の林蔵は能力があり、武士身分にまで出世しているし、上昇志向はあったようだ。
その間、かなりかなり生真面目に身を処してきた結果、シーボルト事件に絡んでしまった。
樺太探検には、生死をかけるような苦労をしているし、伊能忠敬から教えを受け、
測量技術も積極的に身につけている。
単純に隠密だったからと、嫌う理由はないのではないかと、思うようになった。
樺太の探検で名を馳せ、尊敬の目で見られていたが、まもなく知人を売った張本人として、
冷たい視線を浴びせられるようになった。
子どもの頃、河川改修工事に意見を述べ、武士にその能力を見いだされた林蔵であったが、
自分の能力への過信が、晩年の不幸へと導いてしまったようにも思える。
間宮林蔵について、もっと知りたいと思うようになった。