ジョン万次郎の生涯を描いた津本陽の小説の題名。嘉永七年三月三日、日米和親条約締結。それまで江戸幕府のもと鎖国政策をとっていた日本は、それによってはじめて開国した。
土佐(現在の高知県)の漁村に住む十四歳の少年、万次郎は漁の最中嵐に遭い、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられる。熱心なクリスチャンであった捕鯨船のホイットフィールド船長は、故郷マサチューセッツ州フェアへブンに戻り、万次郎を教会に連れて行く。有色人種の同席を拒否された正義感の強い船長は、その教会を脱会し、受け入れてくれた宗派に教会を変える。それほど船長に気に入られた万次郎は、自らも航海術を実践で学びつつ、英語、数学、測量、造船技術などを習得後、望郷とホイットフィールド船長への報恩の念から「日米の架け橋にならん」と、アメリカに暮らして八年、帰国を決意する。
「鎖国」を続ける日本に外国から戻れば、獄門打ち首は必至。それでも万次郎は日本に戻り、お互いの人々の誤解を解こう。どんな苦難が待ちかまえていたとしても国を開かなくてはならないのだと決意したのです。そんな万次郎に、ホイットフィールド船長は、国だけでなく「人の心」も開いて欲しいと言います。開国することもたいせつなこと。けれどももっと大事なのは人々が世界に目を向けて大きく心を開くことだ、と。万次郎は船長に宛てた手紙で「私は 船乗りたちが保護されるよう日本を開港させるつもりです」 「私はこの世界が変わりうることを信じています。そしてこの世界には人間の善意があることも信じています」と。
日本に帰ってきた万次郎を待ち受けていたのは厳しい取り調べでしたが、時は折しも、アメリカから黒船が来航、幕府に開国を要求していた頃。通訳・米国事情を知るものとして重用された万次郎は、林大学頭とペリーの交渉直前「アメリカでは どこの国の人でも困っている時には手を差し伸べるべきだと考えられています。遭難した人さえ助けない日本のやり方は大変不快に思われており、それを改めるよう求めているのです」と進言。それによって、ついに日本は港を開いたのです。
万次郎は、開明的指導者達にも米国事情を伝え、河田小龍を通して坂本竜馬の思想や「船中八策」にも影響を与え、岩崎弥太郎も海運や造船、保険などの知識を学びました。開国後、咸臨丸にて遣米使節の一人として、勝海舟や福沢諭吉に随行した際、船長を訪問し抱き合って感涙したということです。
日米開戦間近の頃、フランクリン・ルーズベルト大統領は、万次郎の子孫宛てに手紙を書いている。「親愛なる中浜博士 私は、あなたの父上をフェアヘブンにお連れした捕鯨船の株主の一人の孫であります。私のまだ幼かった頃、祖父は、日本の少年がフェアヘブンの学校に通ったことや、私の家族といっしょに教会に行ったことをよく話していました。もしあなたかあなたのご家族がアメリカを訪問されることがあれば、お目にかかれる日を楽しみにしています。」ルーズベルト大統領のおじいさんがジョン万次郎を知り、その謙虚さ、適応力、人柄をいたく気に入り、よく、ルーズベルトにジョン万次郎の話をしていたということです。緊迫した日米関係を憂慮し、そのような縁のある国と血を流すことを避けたいという思いを万次郎の子孫に託したのです。残念ながらこの思いは叶いませんでしたが、万次郎が国を変えたといっても過言ではありません。
万次郎は、最愛のキャサリンに「もし男の子が生まれたらドッグウッド(花水木)、女の子が生まれたらカメリア(椿)と名付けよう」と言っていたという。日米和親条約が結ばれた春三月のことだろうか。