「古代、中国と主従関係を結んだ周辺国は、貢ぎ物を贈り、中国の暦を使っていた。5世紀の日本も倭国王として朝貢していた記録が中国にある。日本の天体観測は620年にオーロラが記録されたのが最初で、それ以前には天文記録がないこと、620年以降には日本でしか観測できない現象が見られることから、620年ごろから継続的な天文観測が始まったと想われる。そして日本に律令制が芽生えた680年ごろから天文や占いをつかさどる役所「陰陽寮」が置かれ、専門職の天文博士、暦博士が天文観測と暦づくりを担当するようになった。」と、国立天文台が日本書紀(日本最古の書、漢字)を紐解き、推測した。
600年、派遣された使者に対し、高祖は所司を通じて倭國の風俗を尋ねさせた。使者は「倭王はアメタラシヒコ(天より垂下した彦、天に出自をもつ尊い男)、オホキミ(大王)である。天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬ」と。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。高祖は「これは道理に反したもの、改めるように」と訓令した。
607年、小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと「日本書紀」に記されている。倭王から隋皇帝煬帝(ようだい)に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳倭國傳」にも「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」とある。これを見た煬帝は、未だ倭王が改めていないことに立腹し、外交担当官に「無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな」と命じたという。しかし、小野妹子とともに倭国にきた斐世清が持参した書には「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、自らの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したいという心に、遠い近いの区別はない。倭王は海の彼方にいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗は穏やかだということを知った。心栄えを至誠に、遠く朝献してきたねんごろな心を、朕はうれしく思う。」とある。
小野妹子ら遣隋使を派遣したのは、聖徳太子の飛鳥時代。
用明天皇の皇子で、母が宮中の馬小屋の前に来たとき生まれたとされ、廐戸皇子(うまやどのおうじ)とも呼ばれていた。593年、20歳でおばの推古天皇の摂政(天皇の代理)となり、大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)と協調しながら政治を行った。そして仏教興隆の詔(594年)を出し、法隆寺を建立するなど、都のあった飛鳥地方(奈良盆地の南部)を中心に、すぐれた仏教文化を栄えさせた。太子の願いは、豪族たちの争いをやめさせて天皇中心の強力な国家をつくることにあり、冠位十二階(603年)を定めて有能な人材を役人に登用したり、十七条の憲法(604年)で豪族や役人の心がまえを説いた。
聖徳太子の小野妹子ら遣隋使派遣は、607年。ジョン万次郎の日米和親条約は、1854年。全権林大学頭、十三代将軍家定、孝明天皇。林大学頭は朱子学者の家に生まれ、儒学者。米側は厳粛で控えめな人物と評している。
家定に子はなく十四代将軍家茂は紀州から、家茂にも子はなく十五代将軍慶喜は一橋から。1867年大政奉還。