松山城を下りて来ると、そばに松山城二之丸史跡庭園の案内があったので、入ってみることに・・・。
松山城は、加藤氏のほか、松平氏も治めていたので、このように、葵の御紋が使用されています。
【二之丸をめぐる歴史】
松山城は、慶長7年(1602年)に松山藩初代藩主加藤嘉明によって建設が始められ、二之丸を含む城郭全体が完成したのは、二代藩主蒲生忠知の時代(1627年~1634年)とされています。
二之丸は本丸(天守閣など)を防備するための施設で、南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な櫓や門、それらをつなぐ塀によって囲まれ、その内側には藩主の生活や政務のための二之丸邸がありました。
寛永4年(1627年)に江戸幕府の隠密が松山を訪れ、松山藩の状況を記録していますが、二之丸については「西の方五十二間」「石垣高さ七間程」「濠のはば十七間程、地より水へは二間ばかり」などと報告しています。
偵亨4年(1687年)に新たに三之丸邸が完成し、藩主は三之丸に移り、その後の二之丸邸は、世継ぎの方の屋敷などとして使われました。
明治時代になって一時期、二之丸邸は藩庁・県庁として使われましたが、明治5年(1872年)に火災により焼失し、二之丸邸は270年余りにわたるその歴史の幕を閉じました。』(パンフより)
松山城は、加藤氏のほか、松平氏も治めていたので、このように、葵の御紋が使用されています。
【二之丸をめぐる歴史】
松山城は、慶長7年(1602年)に松山藩初代藩主加藤嘉明によって建設が始められ、二之丸を含む城郭全体が完成したのは、二代藩主蒲生忠知の時代(1627年~1634年)とされています。
二之丸は本丸(天守閣など)を防備するための施設で、南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な櫓や門、それらをつなぐ塀によって囲まれ、その内側には藩主の生活や政務のための二之丸邸がありました。
寛永4年(1627年)に江戸幕府の隠密が松山を訪れ、松山藩の状況を記録していますが、二之丸については「西の方五十二間」「石垣高さ七間程」「濠のはば十七間程、地より水へは二間ばかり」などと報告しています。
偵亨4年(1687年)に新たに三之丸邸が完成し、藩主は三之丸に移り、その後の二之丸邸は、世継ぎの方の屋敷などとして使われました。
明治時代になって一時期、二之丸邸は藩庁・県庁として使われましたが、明治5年(1872年)に火災により焼失し、二之丸邸は270年余りにわたるその歴史の幕を閉じました。』(パンフより)
登ってきた道を、また歩いて下っていきます。
石垣の石は、あまり大きいものは使われていないようでした。
写真のように、ジョギングをしている人たちも、何人かお見かけしました。
少しきつめの坂もあるので、運動効果がのぞめそうです
石垣の石は、あまり大きいものは使われていないようでした。
写真のように、ジョギングをしている人たちも、何人かお見かけしました。
少しきつめの坂もあるので、運動効果がのぞめそうです
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