馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

伊賀と名張を探検してきました

2023-02-23 23:09:37 | 城攻め

2023年2月23日伊賀と名張を探検してきました。

先日甲賀を探検したので、今度は伊賀とその奥地にある名張を見てきたくなったのです。

伊賀や名張と言っても、いろいろ見て回るのは大変ですから下調べをしました。

伊賀には伊賀上野城があり、伊賀忍者博物館なんかもあって有名ですね。

今回私が見て歩きたいのは天正伊賀の乱の跡地なんです。

Wikiによれば、天正伊賀の乱はおおまかに言うとこんな流れになっています。

織田信長の次男信雄……出た、三介殿です(笑)が、1576年天正4年に北畠具教らを滅ぼして伊勢の国を掌握した後、

ヒマなので(笑)親父殿の信長ですら手を出していなかった伊賀の国を攻略することを決意します。

伊賀の国侍である下山平兵衛(甲斐守)がガイドをしますと申告があったようですね。

で信雄は、部下に北畠具教が隠居するために建てていた丸山城を前線基地として整備するように命じます。これを知った伊賀忍者達が、さすが忍者ですね、攻撃して、織田勢は慌てて退却してしまいました。

1579年天正7年、怒った織田信雄は頭にきて8,000人の戦力で伊賀に攻め込みますが、無残なほどの敗退。重臣も討取られて散々な体で逃げ出します。失敗を知った信長は激怒、信雄を𠮟責して勘当まで口にしたそうです。

さて1581年天正9年、今度は親父殿が自ら命令して、信雄は伊賀に攻め込みます。この時もやっぱり伊賀の国侍上柘植の福地伊予守宗隆らが事前にガイドします、と申し出ているんですね。これが第二次天正伊賀の乱。

大軍で編成された織田軍はさすがに強く、伊賀忍者達はとうとう柏原城に追い詰められて、降伏します。

という訳で、丸山城と柏原城をメインで城攻め、探検することにしました。

 

朝9時に車で出発(寝坊してしまいました)、東名阪自動車道を使って亀山から名阪国道へ。雨が少し降っています、名阪国道はカーブが多いし、上り下りが激しく怖いですよね。

11時過ぎには名張市内に入れました。

 

★柏原城

こんなトコです。

事前に調べましたが、近鉄の赤目口駅を過ぎてしばらく、近くの神社、勝手神社に駐車場があるそうです。

勝手神社はこちら。

お参りします。今日も無事に城攻めと探検が出来ますように。

神社の脇に石碑がありました。

決戦之地柏原城とあります。ワクワクしてきました。

簡単な地図もありますよ。右側に駐車場の表示があります、私はそこに停めました。

では畦道を通って柏原城へ向かいます。早速見えてきました。

説明書きと縄張り図があります。

柏原城の虎口です。さあ、いよいよ、忍者達の終焉の地は……

あれ?

これだけ?

井戸がありました。だ、誰も出てこないですよね?

お滝女郎化粧井戸というそうです。

周囲の高台に登ってみました。井戸が見えています。

空堀や堀切はあるのですが、落葉と雨で足が取られてしまいそうです。

ふーむ、他には史跡が見当たらないので撤収します。ちょっち不満な私。( ;∀;)

 

11時半ですので食事します。名張で一番美味しいと噂のあすの澪(しずく)さんへ。

魚介とんこつらーめん、麵固さ普通をいただきました。850円です。

美味しいです。

★名張藤堂家邸跡

名張陣屋こと名張藤堂邸跡が近くにあるので、寄ることにしました。

こんなトコです。

名張は津の藤堂藩藤堂高虎の養子である藤堂高吉の領地です。

この高吉という人は丹羽長秀の三男だったのですが、羽柴秀長(秀吉の弟、小一郎ですね)の養子になりました。その後、秀吉のいろいろな思惑が重なって、藤堂高虎の養子になりました。

関ケ原では高虎と共に戦って今治の地に領地を得て、藤堂家の後継者と目されましたが、1602年慶長6年に藤堂高次が実子として生まれたことにより、波乱が起きます。

高虎と一緒に大阪の陣を経験した高吉ですが、本家を高次が継ぐと名張を治めるように命令されます。

年の差は22歳、高吉の方が年上で歴戦の武将なので面白くなかったでしょうかねえ。津の藤堂藩は22万石(諸説あり)、名張藤堂家は15000石という違いがあるんですもの。

その後本家と名張藤堂家は冷えた関係にあったようですが、将軍吉宗のころに本家からの独立を目論んで、騒動が起きました。結局名張側が屈してこの騒ぎ(名張騒動)は終わりました。

えー長いな(笑)、その屋敷跡に寄ってきました。火災に何度かあって、屋敷は一部しかない模様です。

正面からパシャリ。

お庭もあります。

見物料200円をお支払いして中に入ります。

中にもお庭が。

湯殿(お風呂)だそうです。

厠!もう和式使用は厳しいですねえ。

茶室。

では、いよいよ天正伊賀の乱のきっかけとなった丸山城へ向かいます。

でもお手洗いに行きたいなあ…コンビニ行こうかな?…あ、大きなスーパーがあるなあ…どこだろう?

プ、プラント?プラント伊賀ですと~

伊賀店|SUPER CENTER PLANT

あ~勝手にハンドルが曲がる、車が吸い寄せられていく~

墨俣以来のSUPER CENTER PLANTさんです。手を洗った後、気になってカレーコーナーを見ると、

やっぱり充実してます、ただ墨俣の方が大きいかなあ。

 

★丸山城

名張藤堂邸から約1時間、伊賀市内に戻ってきました。

丸山城はこんなトコです。

近鉄伊賀線丸山駅の近くで踏切を渡ると、忍者がいました!

丸山集会所、こちらに駐車場が数台ありました。

目印です。

入口、なんか不穏な気配。

うっわ、昼なお暗い登り道です。登ると…

広場に出ましたが、まさかこれで終わりでは…右手に道があるようです。

上に続いています。

キツい登り道になってきましたよ、石碑が見えるです。

石塔があります。近づいてみると、

天正伊賀の乱の犠牲者を悼む、と刻んであるようでした。

探索を続けますと、石碑が出てきました。

212.93メートルの丸山城を攻め落としました!!

忍者マンホールを見つけました。

★敢国神社

伊賀上野城の鬼門に位置するそうです。

敢国神社ってこんなトコです。

こちらの神社は服部家の奇祭、黒党祭というものを催しているそうです。

神社のサイトはこちら。

伊賀一宮 敢國神社(あえくにじんじゃ) – 三重県伊賀市のご祈祷・厄祓|三重県伊賀市のご祈祷、厄祓「敢國神社」。当神社で、毎日皆様の車祓、初宮詣、厄祓、安産祈願、家内安全、身体健康を始め様々なご祈祷(お願い事)を奉仕しております。又、出張で祭典(地鎮祭・上棟祭・新築祓始め会社関係)や個人のお祓い等も御奉仕致します。

伊賀一宮 敢國神社(あえくにじんじゃ) – 三重県伊賀市のご祈祷・厄祓|三重県伊賀市のご祈祷、厄祓「敢國神社」。当神社で、毎日皆様の車祓、初宮詣、厄祓、安産祈願、家内安全、身体健康を始め様々なご祈祷(お願い事)を奉仕しております。又、出張で祭典(地鎮祭・上棟祭・新築祓始め会社関係)や個人のお祓い等も御奉仕致します。

 

 

お参りしていきましょう。うわ、また忍者がいます。

伊賀出身の俳聖、松尾芭蕉の句碑です。

手ばなかむ 音さへ梅の におひかな

伊賀の国一之宮です。

社殿に続く階段。

お参りしてから見下ろすとこんな感じ。

服部家と言えば、服部半蔵が生まれたという千賀地城に行ったことがあります。

敢国神社の東北には伝説の上忍、百地三太夫のお城までありましたよ。

こんなトコです。

まあ、話は半分に聞いておきましょう。

百地家累代のお墓。

上の千賀地城と百地砦は以前訪れた時の写真です。

では最後に第二次天正伊賀の乱で織田側についた福地宗隆のお城に寄って帰ります。

★福地城

目印は伊賀SAですかね。芭蕉公園では私のナビは探せませんでした。

こんなトコなんです。

車で上がってしまいました。

石碑の右側が登れそうです。あ、石垣ですね。

なかなか立派な石垣が積んであります。

何やら嬉しくなります。

伊賀上野城以外ではあまり見かけない石垣の群れです。

芭蕉翁生誕之地と書かれています。ホンマかいな~

梅の木が一本咲いています。

紅梅や 見ぬ恋作る 玉すだれ

良い句なのか、全く分かりません。

一家に 遊女も寝たり萩と月

ある人に寄れば、なかなかエロティックな状況だそうです。(笑)

私は横溝正史さんの獄門島の見立てを思い出しました。

是にて伊賀と名張の探検は終了です。

たくさん走り回って疲れました、でわまた。


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